さよなら、赤川先生
「いえ。でも次からは、自分で何とかしてくださいね。僕は次からは来ないつもりですから」
「どうして?」
「あ、ちょっと僕にはレベルが低いかなって思って。こういう教室って料理でも園芸でも、講師によってレベルが違うんですよ。初心者向け、中級者向けが殆どですけど」
真剣な顔でそう言う。あたしはまたぽかんとなって彼を見た。編み物に料理に園芸?
「あなた、失礼だけど一体何をしてる人なの? 学生かなと思ったんだけど」
「僕は……ある人のお手伝いというか、使用人みたいなものです。たぶん、学生より暇です」
「日本にもそんな職業があるんだ」
「職業と言えるかどうかは分かりませんけど。あなたもこの辺の主婦には見えませんね」
「あ、あたしは……」
思わず言い淀む。あたしは何なんだろう。プー太郎? プーってせめてバイトはしてるフリーターの事を言うんじゃないのかな。
「まあ、いいんですけど」彼はまた、あたしの沈黙を敏感に察して助け船を出した。
「ごめんなさい。あたしも自分がなんなのかわからないの」
「何だか哲学的ですね。僕の雇い主もそういえば同じような事を言ってました。……あ、お名前を聞いてもいいですか? このあたりに住んでるなら、また会うかもしれません。名前を知らないとそのとき呼びかけられないでしょう」
「小林深雪。深雪って呼んで。小林って名字、嫌いなの。なんか普通でしょ?」
「じゃあ深雪さんは羨ましがるかもしれません。僕は如月と言います」
「キサラギくん?」
「はい。キューティーハニーと同じ名字です」
如月くんと別れて歩いていると、不思議と穏やかな気分になっている自分に気づいた。きっと彼のお陰だ。ああいうのを癒し系って言うんだろう……なんて考えてると。
りん。
鈴の音が聞こえたような気がした。来た道を振り返ってみる。如月くんは遠くの交差点を曲がるところだった。
確かに、鈴の音が聞こえたような気がした。聞こえたわけじゃない。聞こえたような気がしたんだ。この違いは重要だ。鈴の音が聞こえたような気がする。この感じはあたしをmuchuuにさせる。それを人がfall in loveと呼ぶならそれに文句はつけない。
でも。視線の先で如月くんが完全に角を曲がって消えてしまうと、あたしの頭は冷静さを取り戻した。如月くんがハルキのような存在になることはない。ハルキを裏切る事には全く罪悪感を感じないけど、それなりの拘束力を持った感情があたしの中にある。恋愛にそれ以上のものは必要ない、というのがあたしの持論だ。それに、なにより如月くんも言っていたじゃないか。あたしは不器用なんだ。
☆
「今日はもういいよ」
暖房の効きすぎでぼうっとなり船をこいでいると、ハルキがあたしの肩を叩いた。ふと見ると壁の時計は七時を指している。
「疲れた?」と彼。
「そう思う? ねえ、本当にこんなんでいいの?」と私。
「会社としてはまったくもって良くないね。だから一ヶ月限定だっていったろ? 深雪のリハビリだ」
「うん。感謝してる」
あたしは結局、ハルキに泣きついて雇ってもらう事にした。彼は小さな写真事務所を一人きりで経営している。今は、テレビCMでもよく見る大手の不動産屋と契約していて、パンフレットに載せる物件の写真を撮っているらしい。従来そういう写真はプロの領域ではなかったんだけど、ハルキはそこに目をつけた。ベンチャーだ、と彼は威張って言う。
事務所は練馬の雑居ビルの四階にある。あたしの仕事は電話番で、勤務は朝の九時から夕方の七時まで。初日、ハルキが出かけている間に掛かってきた電話は二本だった。それも、申し訳ございませんが村上は今外に出ておりまして、と言うとどちらも後でかけ直すと言って電話を切った。すこぶる楽な仕事だった。おまけに同僚は恋人なんだから、何の気も使わない。これじゃリハビリにすらならないんじゃないかと思う。それで時給五百円は貰いすぎだろう。もちろんこれはハルキの不甲斐ないあたしへの救済なんだけど。妙にプライドの高い女なら怒り出すかもしれないけど、あたしはこんな事でお金がもらえるなんて夢みたいだと思う。世のOL達がお茶くみが嫌だ、コピーだけなんてやり甲斐がない、と愚痴るのが信じられない。彼女たちは自分に何かできると思ってるんだろうか?
「俺はまだデータの整理があるんだけど、お前はどうすんの? 帰る?」
「うーん。どうしようかな。終わるまで待ってたら邪魔?」
「邪魔って事はないけど、遅くなるよ。夕飯も食わなくていいかなって思ってたくらいだし」
「忙しいから帰れって事ね」
「おいおい」
「冗談だよ。頑張ってるのね。ちょっと感心した」
「惚れ直したろ?」
「ばか」
正直、ハルキの熱心な働きぶりにあたしは意外さを感じていた。午前中に重たそうなプロ用のデジカメを担いで出て行って、夕方まで帰ってこない。新築だったりリフォームしたりで、写真を撮るべき物件は結構あるらしい。事務所へ帰ってきてからも、あたしと雑談しようとは思いつきもしないようにずっとパソコンに向かっていた。構ってくれないのはいつもの事だから気にはならない。まあ、あたしは男のバリバリ働く姿にときめいちゃうような女でもないんだけど。
「あ、そうだ深雪、まだお前に見せてなかったな」
と、彼が事務所の奥の棚から紙の箱を家宝みたいに出してきた。それをデスクに置く。勿体ぶった言い方があたしの好奇心を刺激した。
「それ、なに?」
「俺がこの仕事、苦にならない理由」
箱の中身は、写真だった。A3サイズにプリントした写真が、薄紙を挟んで何枚も重ねてある。一番上の薄紙を取ると、その写真は姿を現した。
貯水タンクの写真だった。マンションの屋上の、丸い貯水タンク。日没後のまだ明るい空をバックに、ひとりぼっちで、なにか重大な決意を抱えたように佇んでいる。それはなんだか、途方もなく寂しい写真だった。
「日芸に通ってた頃から撮り貯めてるんだ。先生にもぼろくそ言われたし、誰も理解してくれなかったけど……。俺が一番気に入ってる被写体、それなんだ」
あたしは次の写真をめくってみた。今度は筒型の、ブルーのタンク。背景は夏空。彼は照りつける直射日光を楽しんでいるように見える。遠くの、山脈みたいな入道雲に見入っているのかもしれない。けれど、それもやはり孤独な貯水タンクだった。
次の写真も、その次の写真も、みんな貯水タンクだった。どれも煽りの構図で空を背負い、悲しいくらいに独りぼっちだった。それなのに彼らが「寂しくなんかない」って言ってるように感じて、あたしは涙が出そうになった。
「いろいろな物件回るだろう、その度に撮るんだ。おかげでこの仕事始めてから、コレクションは何倍にもなった」
「ねえ、あたし」
「ん?」
「ハルキがこれ撮ってきたの、なんか分かる気がするよ」
ハルキはそれには答えずしばらく写真を眺めてから、ありがとうと言って箱に戻した。
☆
ハルキのアパートから帰ってきたあたしは、猛烈に腹を立てていた。誰にって、自分にだ。
彼の事務所で働き出して初めての土曜、あたしは彼の家に泊まった。風呂上がりに梅酒で乾杯した後、あたし達はいつものようにベッドに入った。でも。