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セカンドラブ・シンドローム

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 久しぶりに見上げてみると、よくも毎日これを登っていたものだ、と感心してしまった。駅からまっすぐに伸びる坂道の、頂上に僕が通っていた高校はある。田舎の学生は朝の通勤ラッシュから自由な替わりに、本当の意味での『登』校を余儀なくされるのだ。
 坂道は車がすれ違えるのは途中までで、その先は細い砂利道になっている。両側には桜の木が植えてあって、花の散る頃には道が真っ白になった。

 木漏れ日の中を歩いていると、すぐに息が上がった。おいおいそんな歳かよ、と思ったが、考えてみれば当時だってこの坂はきつかった。今の高校生達だって、はあはあ言いながら毎朝登校しているに違いない。そんなことを考えている間にも、制服を着た高校生数人とすれ違った。今日は土曜だから、部活がなければもう下校の時刻を過ぎているのだ。
 彼らをみていて、優子と親しくなって間もない頃、二人でこうしてこの道を歩いたのを思い出した。今にして思えば、あれはなかなかにエキセントリックな思い出だった。


「ねえねえ、交通事故だって!」
 クラスの女の子が勢い込んで教室に駆け込んできた。
 文化祭の準備期間で、僕と優子は二人だけで赤い絵の具をバケツの水に溶かしていた。自主制作の映画で使用する血糊だ。
「……あれ、みんなは?」
 と女の子は拍子抜けした様に訊いた。彼女と優子はクラスの中でも所属する『派閥』が異なり、少なくとも親しくはなかったから、その場には何となくよそよそしい空気が流れた。
 おとなしい優子が黙っているので、僕が助け船を出した。
「撮影に行ってる」
 すると女の子は救われたような顔で、
「そうなんだ。それ血でしょ? いまね、坂の下で交通事故だって。トラックに人が轢かれたってさ。参考になるかもよ。そんじゃ私撮影班に合流するわ。じゃねー」
 と、一方的に喋って行ってしまった。
「何だよあれ。感じ悪いな」
「ね、陵」
 優子が僕の袖を引いた。
「うん?」
「交通事故だって」
「ああ」
「脳とか出てるかも」
「そうかもな」
 優子の顔がキラキラと輝いていたから嫌な予感はいていたのだが、見事にそれは的中した。
「陵も一緒に見に行こうよ」
 そして僕たちは学校を抜け出して、坂の下の事故現場までふたりで歩いた。八月のはじめで、空は黒いほどに蒼かった。坂道を下りながら何を話したのか覚えていない。とにかく僕たちは笑っていた気がする。
 現場へ行くと被害者は既にミンチになっていて、赤黒い血の中に黄色とか灰色とかの、ぷりんとしたりとろんとした何かが混じっていた。もちろん『銃で撃たれた刑事』の参考にはなりそうになかった。この陽気じゃすぐに腐っちゃうね、と優子は言った。


 優子はなかなかおかしな子だったのだ。当時はあまり意識していなかったが(恋は盲目)、僕はそんなところに惹かれていたんじゃないかと分析する。高校の画一的な性格とか、数字数字の大学受験にうんざりしていた時期だったのだ。
 彼女は今、何をしているのだろう。当時は地元の大学の教育学部に進むと言っていたから、それが一番有力だろうけど。優子のことだから、また何かおかしな事を思いついているかも知れない。

 砂利道を登りきって、でんと構える正門にに手を触れた。冷たい感触とは裏腹に、家出から帰る少年のように胸が高鳴った。帰ってきた、という感じがした。そのせいで一度昇降口から入ろうとしてしまって、踵を返した。僕はもうここの生徒ではないのだ。事務室へ回って、寺島先生はいますか、と訊いた。
 職員室を訪ねると、小柄な中年の寺島先生は心底嬉しそうに僕を迎えた。
「良く来たなぁ、おい」
「ちょっと野暮用で帰ってきてるんで、ついでです」
 と僕は言った。
「なんだよついでってよぉ、この野郎」
 それでも先生は嬉しそうに、僕の背中をばしばし叩きながら奥の座談スペースに案内してくれた。団塊世代特有の、ある種の激しさが僕は当時から嫌いではなかった。
 最近の学校の様子や互いの近況などを話してから、僕は本題を切り出した。
「……それで先生、佐々木優子っていたじゃないですか」
「おう」
「彼女、今何してるか知ってますか?」
 そう言うと、先生は意外そうに眉を上げた。
「なんだお前、知らねーのか。仲良かったんじゃないのか」
「ええ、卒業後は付き合いがなくて。ちょっとどうしても直接会いたい用があるんですけど……」
「何も知らないのか?」
「ああ、はい」
「ちょっと待てよ、えーと確か佐々木は九州の……」
 と言って先生は立ち上がり、デスクのほうへ歩いていった。……九州?
「これだこれだ」
 と言って、先生がファイルを持って戻ってくる。僕はすかさず訊いた。
「九州、ですか?」
「おう。オーイタの大学校、だな。寮に住んでる」
「オーイタって大分県……ですか?」
「そうだよ。温泉が有名だろ、別府と湯布院。特産品はかぼすだろ、あと麦焼酎とか」
 寺島先生は地理の教師だった。
「ちょっと貸してもらえますか」
「おう」
 ファイルを受け取って先生の指差す欄を見ると、確かに優子の名前と、大分県の住所、学校が明記されていた。……九州。九州か、と僕は思った。
「ところで相沢、その『用』ってのは聞かない方がいいような『用』か?」
 と、先生はにやにやしながら言った。
 僕はしばらく考えてから、こう答えた。
「……忘れ物が、あるんです」

 先生と別れてから、校舎を見て回った。廊下は相変わらず黴臭かったし、図書館は蔵書が少なくて階段は急だった。体育館では、数人の生徒がフリースローの練習をしていた。僕がいた頃学校にバスケ部はなかったから(小さな学校だったのだ)、新しく出来たのかも知れない。最後に教室を覗いた。まだ生徒が結構残っていて、珍しいものを見るような目で僕を見た。

 一度事務室を通って外に出た後、昇降口へ戻って、かつて優子が使っていたロッカーを覗いてみた。優子の小さなスニーカーではなくて、足臭い男物の革靴がそこにはあった。
 手放したら二度と手に入らないものというのが確かにあるのだ。流しそうめんのように。僕はなんだか切なくなって目を閉じた。そうしていると、僕は自分がいつの間にか学校の制服を着ている事に気が付いた。周りを見渡してみれば、懐かしい顔ぶれがあの頃のまま、卒業証書や花束を抱えながら靴を履き替えていた。
 卒業式がおわったのだ、と思った。『これ』は『あの時』だ。
 僕は慌ててもう一度優子のロッカーを開けた。もぬけの殻だった。『あの時』と同じだ。こうしてはいられない。優子を追わなければならない。僕は校門を駆け出て、坂道を全速力で走り下りた。優子と交通事故を見に歩いた坂だ。時には優子の後を尾行したりした後ろめたい坂道だ。
 道に広がって歩く同級生達を押しのけて、何度も転びそうになりながら走った。駅のロータリーの横断歩道は丁度良く青で、僕はそのままの勢いで駅舎になだれ込んだ。優子! 優子は……!

 ひどく息が乱れていた。ジーンズが重くなるほど汗をかいている。