ゼロ
海
はじまりのない海は、飽くことなく月光を滅ぼし続けた。海の窓はいつでも閉ざされていて、裂き傷のようなものが表面をいろどるだけだ。海の上では乾いた街の幻影が旋転していて、槍のような水柱を呼ぶ。街は律動するきれはしからできていて、きれはしは斜光のいきれで粘性を増してゆく。街の地面はことばで埋め尽くされていて、人の視線は的確に反意語を射抜く。人が街へと踏みこんで路地を下ってゆくと、人の中の人は海へと紛れこんでしまう。沸きたち、躍りこむ海のかたわれに逼られて、人の中の人は――。
水は海をうしない続けている。水はむしろ海の中の海へと還流してゆく。海の中の海では、至るところに水の形が甲虫の標本のように焼き付けられている。まっすぐ伸びた巨大な通路が海の記憶をつらぬいていて、人の中の人は光を投げ出しながらそこを馳突してゆく。海流を止めるには粒性が足りない。理性を焼き尽くすには窓が足りない。光は蠕動し、海面はいのちの色に染まる。人のかなしみの波紋が、魚のうすい肌を大気のように刺してゆく。
魚は魚となるためにいくつもの恒星を包み込んできた。はじめに尾びれがあり、尾びれを浮き立たせた平面には、魚の本質が、鎔けた鉄のように流動していた。小さな名前が海面から降ってきては、ひれを認知して砕けていった。尾びれをめぐって、眼球の凍えた香りが散らされていたが、香りは水の繊維にからめとられて、はりつめた球体へと集約されてしまった。眼球の生み出す草のような力場が後方へと水塊を覆ってゆき、尾びれによって裏返されて、魚の表面が光へと移ろった。断罪のような雲の季節。肉と内臓とは雪のように降りつみ、魚は集合からひとつの引き裂かれた羞恥へと位階をかえた。
魚の中の魚は海の中の海に固着したひとつの球面であり、そこからすべり落ちる幾重もの痛みを認可し続けている。また、魚の中の魚は海に溶け込んだ嘘のようなものを、そのかがやく内部へと傲然とみちびいてゆくので、魚はいつでも海をだましている。水で描かれた廃市の薬理。人は魚の中の魚にはふれることができず、ただそれが打ち出す光芒が人の手を這い上がってゆくだけだ。太陽系のようななりたちをした人の中の人は、魚の中の魚と衝突をくりかえしては、官能の細胞を交換しあう。魚が海の咎をかじり続けるので、人は魚を狩り続けるのである。
街の上に掲げられた悼みのようなやわらかい空は、無数のやいばを街に降らせながら、とこしなえに遠ざかってゆく。人は街中に散乱した雨の刃を、拾い上げては大気に溶かし、光の輪として指先から射出する。光輪は蔓のような蒸気をかわしながら、ぬめってゆき、海の表皮を燃やしてしまう。海は金属質の喜びをとげのようにめぐらして、人を呑み込んでゆく。
海の中の海にはまたひとつ、人の中の人の焼け続ける標本がはりついて、標本は、瞑想の色をした魚をいくつも吐き出した。