ゼロ
(窓)(部屋)
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昔日の思想は僕の手に形をあたえる。指先を
くるむほとびた皮膜に沙漠のイマージュをな
がしこむと、僕の手指は草の葉をつまむこと
ができる。内臓の液化してゆく音は部屋中に
うかぶ呼気の表面で散乱して、僕の足首にふ
れる。……僕の額には忘れ去られた海があり、
その最深部では羽をひろげた始祖鳥が、空に
向けて発光している。
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窓にはどんな血も流れ込まない。窓はただ、
うつりゆく光の色相面にみずからを連ねてゆ
くだけだ。みなぎった正方形を確認するだけ
だ。……僕は大理石の動かない壁にかこまれ
て、傷ひとつない水晶板越しに、色づいては
焼けてゆく外庭をながめている。水の刃のよ
うな視覚の反作用は内なる沃土をえぐるので、
僕はまばたきをして耐えている。
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部屋は外部をあこがれている。蓄熱した川底
から風化した街へと、風景は切り替わってゆ
く。魚と水とは混じりあい、激しく燃えたあ
とのかがやく灰から聖堂が彫塑される。……
僕は夢のつぶてを頬にあとづけて、部屋の草
花の葉おもてに郷愁をきざみこむ。だが壁に
はめ込まれた記憶をいくら洗っても故郷はな
い。故郷は林へと遁れてしまったのだ。
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やわらかい無意識の破片が宙にひらめき、部
屋の光を奪った。だが、その樹状のまぼろし
に映る風景を僕は知らない。……外庭は家の
中へと切り替わる。孤独を形態的に洗練させ
ると老人になる。老人は僕に気づき、口を動
かすが、声はうまれる由もない。甘い塩のよ
うなものが僕の体にひろがってゆき、脱力し
た眼の中で溶けあい、ほぐれ、にじみ出る。
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村からひとつ山を越えて林を抜けると、そこ
ではルテニウムの廃墟が、筒状の悲哀の底に
沈降して、血の結晶をちりばめている。私は
森とのさかいめに、大理石でできた小さな建
物を見つけた。入り口はなく、水晶でできた
窓が一枚あるだけだった。……私をつらぬく
数限りない旋律のうち、もっとも不吉な狂想
曲が私の唇を切り裂く。
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一億年前の太陽が私に反射されている。恋人
への愛をうつくしい粉にして、そっと足元の
苔にふりかける。……部屋の中には何もない。
分子のすきまには光と影とが重くはびこって
いて、私には壁の文字を読むことができない。
囚われの少女はまなざしだけを残し、過去へ
と昇華してしまった。まなざしは鋭利なこと
ばとなり、私の耳を凍えさせる。
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廃墟をひとめぐりして再び窓の前へ来ると、
家族が食卓を囲んでいた。…壁中に窓ができ
た夢を見たよ。私の髪はまだ曙光でぬれてい
る。…足を洗う日なのだから、手を取り外し
なさい。…闇にはかたちがあるんだ。僕のは
八面体さ。…私の髄液は白金を溶かすほど純
粋だったわ。……私はことばたちの流路を見
つけだすと、ゆっくりとかきまぜた。
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傍らの木の枝にみとれているうちに、部屋の
中身はいれかわった。部屋の片隅には草花が
生えていて、ひとりの老人がこちらを見なが
ら涙を流していた。……風の亀裂が眼に痛く
て、私をとりまく雷は地面に落ちてゆく。私
の心臓は矛盾して、小さな羽音をたてはじめ
る。……指先でふれると窓はたやすく砕け散
り、白色の双曲線がいくつも空に放たれた。
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