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ゼロ

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法学



第一章 権利

 君をみたす酸素分子はさだめられた方角を見失うとき、霧となる。池のおもてで朝日が砕かれてゆくのを、君は燃える指でなぞる。どこまでが記憶なのだろうかと、問うこともしない。背後にあいた小さな穴へと、君の体は奪われてゆきそうだ。
 ひとつひとつの霧分子の硬い表面には権利が駆けめぐっている。創世記の時代には、権利は太陽の核内のねじれた闇のなかで、憂鬱に葉を茂らせていた。太陽が天球へとしずくを落としはじめると、権利は種となり、地上の分子たちの喜びの籠に下獄した。
 たとえば、風景のなかに夢を編みこんでゆく権利。君の瞳へと漂着した権利は、脱ぎ棄てられた靴から垂直になまめく女の体を造形する。呼吸する靴の表面にはいくつもの小さな箱があって、それらを君はひとつずつ開けてゆくのだ。
 ある種の権利は分子の衝突によって生まれ、影として反権利を残してゆく。反権利はさびた鉄のにおいがする。反権利で満たされた君の手は、宙に浮く雪山を彫刻する。空からは君を呼ぶ声がして、君は手にした溶岩を投げつける。

第二章 失踪宣告

 錫でできた小文字を集めて塔を作ろうとする執行官は、突起状の闇に狂う。いくつもの晶石を砕いてきた彼のもとからは、言葉が失踪する。彼の記憶のはずれにて、鳥たちが騒ぐ。
 彼の言葉のない夢のなかで、塔は完成した。それは海に浮かぶ街の中心で、人々の視線をはね返していた。塔の内側には粉飾された文字たちが、液体状の重力のなかに陳列されていた。扉は時間の塵でできていて、炎のように人をこばむ。人々はもはや声を退化させることしかできない。
 真空の層の下で泡立ってくる精気たちは世界の味を忘れてゆく。彼のまなかいには太陽が舞い、彼の渇望は血液に泳ぐ。だがやがて降り積もるかなしみは風の粒と化し、彼はふたたび車輪を回しはじめる。
 銀の眠りから目覚めた宣告者の瞳には極彩色の海が沈んでいて、海は英雄たちのさけびに渦巻いている。空のように明るい小法廷で、彼は執行官の言葉に失踪宣告をくだす。執行官は笑い、そして倒れ、そのまま眠りにつく、金の眠りに。宣告者は立ち上がり、古文書を読みあげる。執行官の言葉は遠い光輪の上でよじれてゆく。

第三章 債務不履行

 人々のやさしい足に踏みしだかれて、僕の体は毛虫のように波打つ。僕の債務は僕が生まれたときから額に貼りついていてはがれない。債務からのびる菌糸状の債務不履行は僕の脳を侵していて、僕にあかがね色の幻覚を見せる。あるときは書きかけの手紙が太陽から降ってきて、杖をついた老婆に姿を変えた。(債務不履行は切り抜かれた紙やすり。)またあるときは恋人が自殺し、いくら走ってもなきがらへたどり着けなかった。(あらゆる命の手綱をにぎり、ダイアモンドの光を目指す。)
 海溝の底に起立する太古の図書館の閲覧室に灯がともる。僕の産声が記録された「彼」との契約書はその図書館の書庫に保管されていて、年若い司書が年に一度は満月のような瞳で透視する。「彼」は夢の余白に生きる者。マントルの対流に身をゆだねながら、崩れゆく天蓋を支える者。僕は「彼」の発語の抑揚を知らない。
 僕は空におびただしい数の死んだ卵を見る。幻覚は水のように僕の感情をみたしてゆくので、現実という水は希釈され失われてしまった。僕には手の甲で日差しをさえぎることしかできない。

作品名:ゼロ 作家名:Beamte