僕たちは何故かプロレスに憧れた
タイトルマッチ当日の朝、僕は山辺の湖の様に穏やかな気持ちだった。緊張感は完全に消し飛んでいた。誕生日やクリスマスや遠足や修学旅行の前の日みたいなワクワク感で僕の心は躍っていた。我慢しきれず僕は布団の中で思わず笑った。そして僕は布団を出た。布団を出た僕は一階に降りていった。食卓では母親が朝食の支度をしていた。僕の手前には新聞を広げて読んでいる父親。いつもは見慣れたこの昔のテレビドラマみたいな風景も今日の僕にはとても美しい絵画の様に見えた。そしていつも通りのご飯と味噌汁も今日の僕には高級料亭の品物に見えた。味は…いつも通りだった。そんな事はどうだっていい。僕には今日を迎えた事が重要だった。僕はいつもより早目に試合会場に向かった。いつもより早い時間帯の地下鉄に乗り僕は会場の最寄り駅に向かった。電車内で僕はチャンピオンのSASAKIのデータを見ながら頭の中で試合のシュミレーションをした。SASAKIはプロレスリング・メシアのKENTO選手とGDTプロレスリングのHARADA選手を足した様なタイプの選手だ。KENTO選手もHARADA選手も打撃を中心としているが最大の違いはHARADA選手にはフィニッシュホールドとして派手な飛び技があるという所だ。それがSASAKIのフィニッシュホールドでもあるファイヤーバードスプラッシュだ。いかにSASAKIのフィニッシュへの流れを断ち切るか、それが今回のテーマだ。正直、プロレスラーとしては相手の技を全部受けた上で勝ちたい。しかしSASAKIの打撃からのファイヤーバードスプラッシュに関しては喰らいたくない。プロレスラーとしてよりも今回は一個人として勝ちたいのだ。それだけ僕はベルトに執着していた。シュミレーションの途中だったが電車が目的の駅に着いた。僕は改札を通り抜け地上に出た。地上に出た同時に僕は携帯の電源をオンにした。次の瞬間、携帯が鳴った。
「マツだ」
僕は昨日の夜と同じ言葉を発した。しかしその後の展開は全く違っていた
その7
僕はマツからの電話に出た。
「もしもし」
「もしもしサトシ君?」
あれっ?マツじゃない。僕がそう感じた同時に電話の向こうの女性は言葉を続けた。
「久しぶりね。シュンジの母です」
シュンジと言うのはマツの名前だ。
「…マツのお母さん」「そうよ。久しぶりね」
「お久しぶりです」
「久しぶりに電話で話したら急に声が大人になっててビックリしたわ」
「どうしたんですか?急に。しかもマツの携帯で」
「実は昨日シュンジが死んだの」
僕は訳が分からずその場で立ち尽くした。マツのお母さんが言うにはマツは昨日のファミレスからの帰りに交通事故にあったらしい。そして死んだ。なんとも呆気ない最後だ。何故か他人事の様に僕はそう思った。マツのお母さんは話を続けた。高校に入学した時にマツの両親が離婚した事。苦しくなった家計を助ける為にマツがバイトを始めた事。その為にマツが大学進学を諦めた事。マツの夢がプロレスラーになった僕の試合を見る事。僕はマツの親友だと思っていたが僕はマツの何も知らなかった。何も知らなかった。何も。僕は路上に立ち尽くしたまま涙が止まらなかった。誰かが「降りやまない雨は無い」と歌っていた。でも今、僕の目の前で降りしきるこの雨は一生降り止まない。少なからずこの時の僕はそう思った。事故の前にあった最後の人間という事もあり僕は警察から事情聴取を受ける事になった。何を聴かれたかはあんまり覚えてない。次の日に僕は連盟に興行に穴を開けた事を謝罪しに行った。連盟の事務所がある大学には連盟の会長とSASAKIが居た。会長もSASAKIも凄く優しかった。それが僕には辛かった。
「お前とのタイトルマッチ楽しみだったんだよ」
「ゴメン」
「まあ、気にすんなよ。お互いにプロレス続けたらいつかきっとまたどこかで対戦出来るよ。プロとか対戦するリングはまだまだあるよ」
僕は明るく未来を語るSASAKIが羨ましくもあり妬ましくもあった。僕には明るい未来なんてない。SASAKIの言葉を遮るように僕は「ゴメン」と力無く言った。そして僕は学生プロレスを辞めた。
その8
学生プロレスを辞めた僕は惰性で大学を卒業した。大学を卒業した僕は大学時代からしていたコンビニのバイトを何となく続けていた。何の目的も無い僕はダラダラダラダラ生きていた。ただ生きていた。ただ生きているだけなんて人間じゃない。そう思っていても今の僕には何かをする気持ちは湧いてこなかった。ただ体が鈍るからと言い訳をつけて格闘技ジムには通っていた。夢と親友を同時に失った僕は格闘技をした所で体は鍛えられても心までは鍛えられなかった。
その9
大学を卒業して六年ほどたった頃、久しぶりにヒロに会う事になった。僕達は28歳になっていた。ヒロは大学卒業後印刷会社に就職して営業として働いている。久しぶりにあったヒロは社会人らしい雰囲気を纏っていた。何かの差を感じた。その差が何かは分かってはいるがそれを埋めようという気にはなれなかった。
「久しぶり。バイト頑張ってる?」
「ああ、そっちは仕事どう?」
「大変だよ。外回りってのは」
社会人用語っぽい言葉を使って喋るヒロが大人に見えた。
「最近、プロレス見てる?」
「いや、見てない」
ヒロは笑った。
「やっぱりな」
「何だよ。気持ち悪いな」
「とりあえず俺のアパートでプロレス見ようぜ」
ヒロの有無を言わせない勢いに僕は圧倒され断れなかった。気がついたらヒロのアパートに居た。やたらと綺麗な部屋に女の匂いを感じた。部屋に入るなりヒロは「これ見てみな」と言いDVDを再生した。再生されたDVDに出てきたのはプロレスリング・メシアの試合だった。六年近くプロレスを見ていなかったが見た瞬間にすぐ理解できた。やっぱり僕はプロレスが好きだと。食い入るように見ている僕の横顔を見てヒロは笑った。
その10
DVDで再生されていた試合が終わると試合をしていたとある選手のインタビューに切り替わった。テロップに「佐々木実」と出た。僕はヒロの顔を見た。ヒロは笑った。次の瞬間僕は叫んだ。
「SASAKIだ!アイツ何?プロになったの?しかもメシア?」
「ああ、知らなかった?」
「知らねーよ!だって俺全然プロレス見てないし」
「まあ落ち着けよ。まだ続きがあるから」
僕はヒロの言葉にキョトンとした。DVDは再生されたままだった。DVDの中ではインタビュアーがSASAKIに質問をしていた。
「いやー佐々木選手最近絶好調ですね」
「いやそうでもないです」
「ところで佐々木選手目標があるとお聞きしたのですが?」
「そうですね。あのウチの団体のシングルのベルト、ヘビーはまだ体が小さいからあれですけど…」
「となるとジュニアですか?」
「そうですねジュニアのシングルのベルトを取ってやりたい相手がいるんで」
「誰ですか?」
「いや名前はまだ出せないっすね…」
「何かヒントはないですか?」
「まあやり損ねた相手ってとこですね」
「なるほど分かりました」
作品名:僕たちは何故かプロレスに憧れた 作家名:仁志見勇太