Tiptoe
そう言うと、飛野の顔が明らかに曇った。わたしは悪い予感が当たった上に、さらにもう一段階転がり落ちたことに気づいた。これは、まずいことをしてしまったかもしれない。
「マジかー」
飛野はそう言って口角を上げたけど、どことなく途方に暮れているように見えた。そんな表情は見たくないけど、もう取り返せない。こういうときに飛野が本当はどう思っているのかも分からないし、次になんて言い出すか想像すらできない。友達だけど、そういう事態になりそうな空気は徹底的に避けてきたから。
魚住が登校して、自席をウェットティッシュで拭き上げると、わたしと飛野の方をちらりと見て、カメラ係の腕章をつけると外へ出て行ってしまった。卒業式も大詰めだし、忙しいのだろう。でも、今までなら三人で一回は集まって、飛野を中心に話していたはずだ。断った手前、飛野と顔を合わせるのが気まずいのか、表情を見てわたしにも『お相手』がいることを無言の内に悟ったのか。どちらかは分からないけど、会話に加わる空気でないと魚住が判断したのは、確かだ。今や、わたしとトビウオコンビの間だけじゃなくて、トビウオ二人の間にもギザギザに亀裂が走っている。お昼ご飯のとき、飛野は身振り手振りの動きが半分ぐらいになっていて、いつも聞き役の魚住の方が、少し口数が多く感じるぐらいだった。勝手に男子と『契約』を交わしたわたしは、飛野に誘ってもらいはしたものの、こうやって三人でなんとなく変な感じのままテーブルを囲んでいると、自分が一番の悪役な気がする。トビウオは自分たちのキャラを通しているだけなのだから、おかしいのは明らかにわたしだ。
湯河原くんと話す機会がないまま放課後になり、風紀委員の見回りを終えて、わたしは教室に戻った。課題を机の上に置いた湯河原くんがひとり残っていて、わたしは自分が言った『月曜からでも余裕』という言葉を今さら思い出した。そして、その言葉の通りになっていることに、全身から緊張がすうっと抜けた感じがした。
「ごめん。もしかして、待ってくれてた?」
「そんなことないよ。いや、あるかも。そうだね、うん。待ってた」
湯河原くんはたどたどしい口調で言うと、前にこうやって顔を合わせたよりも淡い光に照らされながら、鞄から分厚い冊子を取り出して笑った。
「家に統計資料があったから、持ってきた。数字ばかりだけど」
「すごいね。うちには漫画しかないよ」
わたしはそう言うと、壁にかかった時計を見上げた。日が落ちるまで三十分ぐらいある。どこか神様にお膳立てされた気がするのは、金曜日に思うまま買った百円均一グッズのことがあるからだった。わたしには、湯河原くんにどうしても渡したいものがあった。なぜなら、頑なに名前を書かない理由が分かった気がしていたから。自分の持ち物というのが、湯河原くんには存在しない。今や、生まれてからずっと住んできた家ですら、手から離れていこうとしている。だから、いずれ消えていくことが分かっている物に対して、自分の名前を書く意味がない。自分の物じゃないんだから、名前を書いてはいけないというのが正しいかもしれない。
「湯河原くん」
わたしはそう言うと、リュックサックから新品のペンを差し出した。
「インク、切れてたでしょ。これ、あげる」
「いいの?」
湯河原くんはペンを恭しい手つきで受け取ると、真意を確かめるようにわたしの目を見た。わたしはうなずいた。
「これは、わたしがあげたんだから。絶対に湯河原くんのものだよ」
しばらく間が空いた後、わたしの顏が熱くなる直前に、湯河原くんはまだ包装フィルムに包まれたままのペンを窓にかざした。
「ありがとう。大事に使う」
独特な愛で方だ。少しずつ色づいてきた夕日を真っ二つに割る細いペンと眩しそうに目を細める湯河原くんの横顔は、どことなく商品のコマーシャルみたいで、絵になっていた。百円均一のペンとは思えないぐらいに。
「それを買うとき、じいやさんと遭遇したんだけど。声かけちゃった」
「普通にじいやでいいよ。クッションを買ってきて、ソファを修理してくれた」
「もう沈まないんだ?」
「いや、今朝試したんだけど、沈む方向に勢いがつくようになって、簡単に起き上がれなくなったかもしれない」
湯河原くんはそう言って、それが嬉しくて仕方がないように笑った。わたしも、沈む方向に勢いがついて起き上がれなくなる自分を想像すると面白くなってきて、試してみたくなった。笑っているわたしの方を向くと、湯河原くんは言った。
「じいやと会ったってことは、ワンコイン館?」
「そう。百円均一のお店。知ってるの?」
あの屋敷に住む人と百円均一は、どう頑張っても結びつかない。わたしが答えを待っていると、湯河原くんは包装フィルムを丁寧に剥がしてペンを取り出しながら、言った。
「じいやは、百均が好きなんだ」
「んなアホな」
思わず口に出してしまったけど、湯河原くんは少し笑っただけで何も言わなかった。わたしが買ったのは、三色ボールペンにシャープペンシルがついたタイプで、湯河原くんは自分の筆箱から取り出した芯に入れ替えると、統計資料を開いた。
「僕は気にしないよ。むしろ、意味を教えてほしい」
「んなアホな、の? 難しいよ。そんなわけないじゃん、とも違うし。冗談はよしてよ、とかかな」
わたしは統計資料の中に並ぶ数字に目を向けながら、言った。湯河原くんはペンを手に馴染ませるようにくるっと回した。
「もう、馴染んできた?」
わたしがそう言って口角を上げると、湯河原くんはうなずいた。話すと昔からの知り合いのようで、百円均一の話ができて、頭まで沈むソファで同じ目に遭って。わたしがあげたペンをくるくる回していて。いや、それは言い過ぎか。まだ一回しか回していないけど。でも、全てがするすると始まっていて、先週までどう放課後を過ごしていたのかは、なぜか思い出せなくなってきていた。
家に帰って、香苗を引き連れたまま居間に入り、わたしは二階へ上がった。お母さんがとんとんと階段を上がる足音がついてきていて、部屋に入って制服の上着を脱ぐのと同時に、わたしは気づいた。便利ハンガーに、昔のTシャツが吊られている。
後ろから部屋を覗き込んだお母さんが、言った。
「懐かしいね、これ。真凛が見つけてくれたとき、嬉しかったわ」
もう入らないけど、小学校の時によく着ていた黒色のTシャツ。色褪せてなすびの皮みたいな紫色になっているけど、首元はしっかりしている。
「ワンコイン館、近所に見つけてん」
わたしが言うと、お母さんはわたしの背中に手を置いて、言った。
「今度、みんなで行こか」
「うん」
わたしはそう言うと、お母さんに一度だけくっついてから、すぐに離れた。
自分のものをマーキングしておかないと、すぐに飲み込まれる竹井家。人が多くて、慌ただしくて、そそっかしい。
でも、遺産は運命。
その言葉のフィルターを通してみると、こんなに恵まれた環境はそうそうないように感じる。新天地で意外にうまくやっている智香と香苗の笑い声も、仕事しすぎなお父さんの遅い帰宅も、料理のレパートリーを次々増やすお母さんも、その全てが肯定されていて、その道筋は思いのほかまっすぐで、堂々としているように見えた。



