Tiptoe
一年二組の中で、学校に着くのが一番早いのは飛野だ。寝ている時間も勿体ないみたいに、たたずまいがすでに弾けている。わたしが教室に入ると、鞄を座席の横へかけたばかりの飛野が顔を上げた。上下の歯が薄く覗く笑顔はアイドルみたいで、中々切らない前髪は遂に両目に侵入しているらしく、瞬きがいつもの倍ぐらい多くなっている。
「真凛、おはよー」
右手で挨拶をしながら左手で手招きをしていることに気づいたわたしは、自席に鞄をかけて、飛野の前まで行った。飛野は左手の手招きをやめて、右手でわたしを寝かしつけるようにぽんぽんと叩きながら言った。
「さっき、小川先生が来てさ。めっちゃ晴れなのに、全然パリッとしてないんだよ。しわっしわのお札みたいな顏してて、すでに私がいるの見て、すごいびっくりしてた。どうしているんですか、みたいな。いやいや自分の席だっつうの、って話だよね。ごめん、なんの話だっけ?」
わたしは首を傾げた。
「まだ聞けてないかも。あ、おはよ」
「あれ、なんだっけな。あ、そうだ。今日は湯河原くんが休みだって。課題持って帰る日なのに、説明聞けないのはかわいそうだな」
「病欠?」
「いや、なんだろ。ご家庭系?」
わたしが食い気味に返したことに驚いたのか、飛野は両手を胸の前で合わせた。外交モードのときは、この位置になる。沈黙が流れかけたとき、魚住がガラス細工を扱うように丁寧に扉を開けると、自席にスタスタと向かいながらわたし達の方をちらりと見た。
「おはよう」
魚住はそう言って小さくお辞儀をすると、わたしと飛野が挨拶を返すのと同時に、銀縁眼鏡を定位置まで持ち上げた。眼鏡を外しているところは、見たことがない。前に油っぽいゴミが眼鏡の端にくっついたときは、休み時間にトイレに行くときに何度も後ろを振り返り、誰もいないことを確認してから洗面台に向かっていた。こめかみの辺りで前髪を留めているピンは日替わりで、赤色と緑色のローテーションになっている。魚住は自席に鞄を置くと、机の上をウェットティッシュで綺麗に拭いてから、それをゴミ箱にそうっと入れて、カメラ係の腕章を片手に持ったままわたし達に合流した。三年生の卒業式は在校生が自由に撮影することになっていて、コンクールに何度も入賞している魚住が抜擢された。これから忙しくなりそうだけど、飛び立つ前に一度こうやって集まるのは、定例になっている。飛野は、魚住の眼鏡に触れたそうに手を伸ばしかけた後、言った。
「湯河原くんが休み」
「珍しい」
魚住はそう言うと、眼鏡の後ろに控える色素の薄い大きな目で、湯河原くんの席に目を向けた。わたしは、弁解するみたいに言った。
「昨日、忘れ物してたんだよね。それすら珍しいんだけど」
飛野が、マイクを向けるように少しだけ開いた手を差し出した。
「真凛が見つけたの?」
「うん。見回ってて、気づいた」
「それは、湯河原くんからしたら恩人だね。先生に見つかったら名前のことで怒られるでしょ」
飛野がそわそわした様子で言い、魚住がわたしの方を向いて言った。
「もしかして、竹井さんがそのまま湯河原くんを職員室に連行したとか?」
「してないよ。だとしたら今日休んでる原因、わたしでしょ」
そう言うと、魚住は声に出すことなく笑顔になった。飛野がその表情をまじまじと見つめて、言った。
「笑ってる。それ、笑顔だよね?」
「違うよ、飛野さん。これは微笑み」
魚住はキッパリ言うと、真顔に戻った。飛野はいつものアイドルスマイルを浮かべながら、魚住のしわひとつない制服をつついた。
「素直じゃないなあ。声出していこうぜえ」
この二人のやり取りは、いつもこんな感じ。底抜けに明るい飛野と、やや気怠い感じの魚住。水と油のようで、この二人が別々でいるところは想像がつかない。魚住が眼鏡の位置を調整して、ガードの固いその姿に飛野が腕組みをして先生のような姿勢を取ったとき、ちょうど山科くんが入ってきて、そのまま自席に座った。十分ぐらい経って生徒がどっと集まりだしても湯河原くんが現れないことに、困惑しているようだった。つまり、山科くんにも言ってないということになる。
朝礼から一日が始まり、魚住は体育の授業をパスして、終礼時に課題が出た。
『あなたの町の環境調査』
町で行われている『環境に配慮した持続可能な取り組み』について調べること。担任の伊藤先生は社会の先生だから、今回のやつは気合いが入っている。共同で提出する場合は、二人組までなら可。飛野が一度こちらを見たけど、すぐに魚住と磁石のようにくっついた。わたしは他の子から声をかけられても断って、個人プレーを選んだ。なんとなく、共同作業をするのは気が進まなかった。
すぎいドンが消しゴムのカスを捨てない話なんて、ぴったりかもしれない。そう思って顔がにやけかけたとき、伊藤先生と目が合った。風紀委員を見る目だった。わたしは、今日が金曜日だということを思い出した。だから、教室がにぎやかにざわつく中、教卓の前にいる伊藤先生のところまで行って、言った。
「湯河原くんに、課題を渡さないといけないです。わたし、帰りに寄ってきますけど」
伊藤先生は、湯河原くんに小言を言いすぎて、素直に話を聞いてもらえなくなっている。なんとなく助けを求めるような目で、伊藤先生は言った。
「お願いできるかな。面倒でなければ、課題の説明もしてあげてほしいんだけど」
土日を飛ばして月曜日に課題を渡すとなれば、その分不利になる。湯河原くんの両親がどんな人かは知らないけど、わたしのお母さんなら黙っていないだろう。伊藤先生はふうと息をつくと、名前が書かれていない課題ファイルをわたしに手渡した。
「ごめん、じゃあ頼むよ」
面と向かって説明ができるとは限らないから、わたしは簡単な引継ぎメモを書いた。駅で飛野と魚住にバイバイを言った後、最寄り駅で降りてようやく、自分が引き受けたことの重大さが身に染みた。家に上がるってこと? それとも、湯河原くんの言っていた『じいや』が門の反対側に現れて、課題だけ取って引っ込んでいくのだろうか。どんな感じの表情で行けばいいのか、全く分からない。見回りを早足で終えたから、町はまだ明るかった。先を急ごうとする自分の影を追いかけるように、大きな門が遠くに見える坂道を上がっていると、なんだか判決を聞きに行くような気分になってきた。
わたしは坂道を上がり切ると、後ろを振り返った。町全体を照らす淡い西日は微妙に俯いていて、湯河原家には届いていない感じがする。前に向き直ると、門の奥は深い青色で、長らくカーテンが下りたままの部屋みたいに、空気が止まっているように見えた。
わたしは、何度も磨かれて地金が見えかけている金属製の門をぐるりと見回して、雨よけの下にたたずむ呼び鈴を押した。すぐに赤いランプがついて通話状態になったことが分かり、深く息を吸い込むと、あらかじめ考えていた文章を口に出した。
「突然すみません。わたくし、私立志水学院中等部一年の、竹井真凛と申します。湯河原治樹くんと同じクラスで、風紀委員を務めております。本日、ホームルームにて課題が出まして、その資料をお渡ししたいのと、簡単に説明ができればと思い、お邪魔させていただきました」



