Tiptoe
「歩いてたよ。はい、ブツでやんす」
そう言ってエシャロットが入った袋を渡すのと同時に、緊張が一緒に抜けていった。いつしか、家の中は安全地帯になった。どちらかというと、家以外が緊迫エリアに変わったと言うべきなのか。お母さんは自分の両頬を指すと、言った。
「なんやろね、ちょっとポッとしてるよ」
「もう、トシですわ」
「アホ言いな」
お母さんが歯を見せて笑い、わたしは香苗を左側に従えたままリュックサックを両肩から抜いた。自分の部屋に辿り着くまでには、まず香苗のタックルと智香の目線をくぐり抜ける必要がある。宿題を誇らしげに終えた智香が、ノートをぱたんと閉じてから言った。
「いいことあった顔してる」
「ほんま? わたし、顔に出るタイプなんかな」
そう言ったとき、香苗がぱっと離れて智香の方へ駆けていき、閉じられたノートを興味津々な様子で見つめた。智香はノートの表紙に描かれた花のイラストを指差して、言った。
「かなっぺ、この花は何?」
「きんもくせい!」
相変わらず香苗は、記憶力が良い。成長してわたしや智香の頭脳を追い抜いたら、わたしの呼び名は『おねえねえ』から『ねえ』に縮まるかもしれない。二階に上がって自分の部屋へ滑り込むと、わたしは制服の上着をハンガーにかけた。頬が微妙に赤いなんて、お母さんも中々の観察力だ。自分では気づかなかったし、どうしてなのかすら分かっていないのに。一時間ぐらいしてお父さんが帰ってきて、晩御飯が始まった。
お父さんは遺産を得てから、転職して数倍働くようになった。土日も家にいないことが多くて、いつの間にか家にはゴルフセットが置かれている。ずっとスーツ組だったけど、今着ているお気に入りのグレーのやつは、何となく艶がある。
大中小と三種類のサイズの娘に均等に話しかけながら、お父さんは楽しそうにご飯を食べる。その間はずっと『生まれ変わる前の方言』が全開で、聞いたことはないけど、仕事中にぽんと出ないのか心配になる。
「せやかて、人間の集中力なんか十五分ぐらいしか持たんからな」
お父さんは、そう言って笑った。最近は、管理職が受ける研修を連続で受けているらしい。わたしは、小さめに切られたスモ―ブローをひと口で食べると、言った。
「学校みたいやんね。パソコンでやるん?」
「各自、ヘッドホンつけて学習よ。目ん玉が重い重い」
そう言ってお父さんが自分の両瞼を下に引っ張ると、香苗がプラスチックのフォークをどこかの部族みたいに振り上げて笑い始めた。金属製の食器を堂々と操る智香が呆れた目で眺める中、わたしは学校で起きたことを思い出して、言った。
「ベートーベンって、野心家やったらしい」
お母さんが話に乗っかろうとしてこちらを向いたとき、お父さんはビールをひと口飲んで首を傾げた。
「おー。どれやっけ、難聴やった奴か? ジャジャジャジャーンの」
お父さんが言うと、どんな偉人でも近所に住んでいる人みたいになってしまう。わたしは口角を上げると、うなずいた。
「そう、職人タイプって感じでもなくて、野心バリバリやったみたい」
「そんな高尚な話、してんのか」
お父さんが感心したように小刻みにうなずき、お母さんが笑った。
「ベートーベンが生きてた時代に週刊誌があったら、暴露記事になりそうやな」
その後は、飛野と魚住のお嬢様エピソード紹介が続き、わたしの番が終わると、智香のクラスにいる奇行の多い男子の話になった。大抵話題に上がるのは杉井くんで、鉛筆や消しゴムの削りカスを捨てることなく収集している。男子というのは、そういう変なことをする。
例えば、持ち物に決して名前を書かなかったり。
わたしが別の世界に滑り込みそうになったことに気づいたのか、智香がわたしの目を見て言った。
「でも、すぎいドンのすごいとこはなあ、ほんまにごみを出さんねん」
智香のクラスでは同級生にあだ名をつけてはいけないことになっているが、最後に敬称のように付け足すことだけは許されていて、実際『すぎいドン』というのは恐竜みたいな振る舞いをする杉井くんによく合っているし、本人も嬉しそうらしい。
「体調悪かったりしたら、ボロが出るかも」
わたしが言うと、智香はうんうんとうなずいた。その首の筋力の強さは、香苗が生まれていなかったころに『おかえりタックル』を受けていたわたしが、一番良く知っている。
湯河原くんだって、今までに忘れ物をすることはなかった。すぎいドンは今のところボロを出したことはなさそうだけど、湯河原くんは、今日に限っては何かが違ったのだろうか。わたしは、新しく栓を抜いたビールの中身をグラスへ注ぐお父さんに言った。
「遺産当たったとき、財布と車の鍵失くしたやんね」
お父さんがビール瓶を揺らせながら笑った。グラスに入っていくビールの泡も揺れて、雲みたいにでこぼこになった。
「当たったって、なんや。宝くじちゃうっちゅうに」
「すぎいドンを見習ってほしいなって」
「もう、失くすことはないわ。一生に一回のことやからな」
お父さんがビールをひと口飲んで、その傍で智香が唇を固く結んだ。クラスで通用するあだ名でも、わたしが茶化して言うのは、何かが違うらしい。クラスには三十人ぐらいいて、いくら杉井くんが目立つからといって、八割がその話題を占めるということは、まあそういうことなんだろう。あれこれ世話を焼いて大人ぶりたい智香と、ただ七歳になっただけの杉井くんなら、いい関係になれそうな気がする。十年は早い気がするけど。
ご飯が終わって、わたしは片づけを手伝い終えると、自室に戻った。智香と香苗がお母さんと一緒にお風呂に入ってドタバタと音を鳴らすのを聞いていると、周りの世界は常に生きていて、自分だけが頭まで毛布を被ってやり過ごそうとしているということに、嫌でも気づかされる。同じペースで走り出せば、わたしだって絶対にボロが出る。飛野と魚住には、別々に家に招かれた。だから次はうちの番なんだけど、ミニチュア版の飛野みたいな香苗がいるし、智香は魚住の妹を名乗れるぐらいに澄ました感じでも、相変わらずパスタはおでこの高さまで一度持ち上げないと、うまく食べられない。だから、それとなく用事や来客がある感じを出して、二人には一回ずつ濁している。せめて一貫したテーマがあればいいけど、うちにはない。わたしですら、どこ出身でもない態度で毎日をやり過ごしているのだから。そう、生活しているんじゃなくて、やり過ごしているのだ。夏でも冬でも『量産型』というロゴが入った同じ毛布を被って。
夜の用事が済んで、どんどん身軽になっていって、ようやく何も気にしなくてよくなるのは眠る直前、スマートフォンのアラームをセットするときだ。そのはずだったけど、ようやく空いた頭の中に入り込んできたのは、ついさっき食卓で聞いたばかりの、お父さんの言葉だった。
一生に一回のこと。



