Tiptoe
わたしは机の前まで行くと、ついさっき終わったばかりの音楽の授業を思い出した。余談が八割を占める梨川先生は若い女の人で、性別を問わず生徒に人気がある。話が面白くて、教科書に作曲家の名前が出てきたら、後半はその人のエピソードで授業が完結する。
『ベートーベンだって、何百年と経った後に、遠い島国で自分の名前を変な発音で読まれてるなんて、想像もしなかったと思うよ』
その後に梨川先生は本場の発音でベートーベンの名前を読み上げて、何人かが笑った。特別、何かがあったわけじゃない。わたしは筆箱とその隣に転がるシャープペンシルを手に持って、教室から出た。少し足を止めただけなのに、夕日は先を争うようにどんどん建物の隙間に落ちていって、急がせようとしてくる。見回りを終えて教室に戻ったとき、自席の前で首をかしげている湯河原くんとばったり出会い、わたしは思わず姿勢を正した。
「おったんや……、いや、まだいたのね」
湯河原くんは前を向いたまま、自席に話しかけられたように小さくうなずくと、息をついた。
「じいやに買ってもらうしかないか……」
わたしは近くへ寄っていくと、自分よりも少しだけ背が低い湯河原くんの立ち姿を観察した。折り目正しいというか、本物は違うというか。遺産騒ぎの前年まで畳の部屋でごろごろしてきた不良娘とは、格が違う気がする。悩み方にすら様式があるみたいだ。
「じいやって、おうちの人?」
無意識にそう口に出して、わたしは筆箱を持っていない方の手で口元を押さえた。何も考えずに言ってしまった。湯河原くんはそれが事実か確かめるように宙を見ると、ようやくうなずいた。
「そうだね。難しいな。血は繋がってないんだけど、祖父の代で経理をやってた人だよ」
こんなに長く言葉を話すのは、初めて聞いたかもしれない。湯河原くんが機械のように話すのをやめたことで、わたしは自分が話す番だと気づいた。
「ややこし……、難しいね」
「ややこしって、何?」
湯河原くんは上着のポケットからスマートフォンを取り出すと、ロック画面を解除した。ケースも壁紙も、お店に置いてあるサンプルのまま。その地味さには驚かされたけど、湯河原くんがブラウザを立ち上げたことに気づいて、わたしは空いている手を横に振った。
「調べなくていいよ」
「出てこないかな?」
湯河原くんはそう言うと、ふっと笑ってスマートフォンを仕舞いこんだ。わたしは手に持った筆箱を差し出した。
「順番、完全に間違えててごめん。探しに来たの、これだよね。音楽室に忘れてたよ」
湯河原くんは目を丸くすると、筆箱とペンを受け取って安心したように頬を緩めた。
「ありがとう。僕のやつだって、なんで分かったの?」
「消去法で」
わたしが言うと、湯河原くんは少しだけ歯を見せて笑った。
「僕だけ、名前を書かないからか。でも、分かる人には分かるんだな」
「じいやには、お願いしなくて大丈夫そう?」
わたしが言うと、湯河原くんは何度もうなずきながら筆箱を鞄に仕舞い、ペンは上着のポケットに差し込んだ。そして、ふと気づいたみたいに顔を上げながら言った。
「どうして、音楽室にいたの?」
「見回りしてた。風紀委員だから」
わたしがそう言ったとき、ぎりぎり粘っていた夕日が遠くに見える高速道路の後ろへ隠れて、教室の中がすうっと青くなった。湯河原くんも一度振り返って窓の外を見た後、言った。
「梨川先生の話だけど、ベートーベンって、名前を残してやろうって必死だったのかな」
「後で好き勝手に言えちゃうし、分からないよね。本人は、そんな必死ちゃうわって思ってるかもしれないし」
湯河原くんはわたしの返答に満足したみたいに、鞄を肩に掛けなおした。わたしは自分のリュックサックを背負うと、湯河原くんがまたスマートフォンを取り出して検索を始めたことに気づいて、言った。
「ちゃうわって、調べないでいいからね」
「調べてないよ。ベートーベン、野心家で検索したら、向上心が強くて不屈の精神を持っていたって、書いてある。貧困から抜け出して、成功を掴んだって」
スマートフォンの画面を見つめる湯河原くんと教室を出て、わたしは鍵を閉めながら言った。
「あー、すごいな。どうやって貧困から抜け出したんだろ。遺産でも相続したのかな。それは違うか」
そう言ってわたしが笑うと、湯河原くんは少しだけ首を傾げたけど、ゆっくりと歩き出した。わたしはなんとなく隣を歩いて、職員室に鍵を返すところで別れた。そこから家に帰るまでの間、お母さんから届いた『買い物リスト』を頭に入れてスーパーへ寄り道しながら、音楽室から職員室までのくだりをずっと思い出していた。名前を書かない、湯河原くん。そこに、血のつながっていない『じいや』が祖父の代で経理をやっていた人という、妙に細かい情報が追加された。
それにしても、湯河原くんがあんな感じでよく話す人だとは、知らなかった。わたしはマダム御用達の高級スーパーに寄って、エシャロットとスモ―ブローに使うためのパンを買った。東日本マダムに変身したお母さんは、料理の幅をどんどん広げて、いつの間にか世界各国の料理を作れるようになっている。お父さんは『なんやエシャロットて。ねぎやったら、ねぎって言うてくれや』とか言うけど、結局はどんな料理でも美味しそうに食べる。
家は三階建てで、ガレージにはお父さんのメルセデスとお母さんのアウディが停まっている。ドイツ製だ。ベートーベンが野心家だったみたいに、ドイツ製のものは向上心があって勝ち気な象徴なのだろうか。わたしは一度振り返って、淡い街灯で照らされる住宅街に目を向けると、玄関を開けた。隙を見せるとすぐに、今日の会話が頭の中へ入り込んでくる。まだ、学校の延長だ。だから、ここまではまだ格式が高い。靴だって、綺麗に揃えられている。わたしは靴を揃えると、スリッパを履いて廊下に一歩を踏み出し、奥に声をかけた。
「ただいまー」
真横からどたどたと足音が鳴り響いて、腰にタックルが来ると予測したわたしは足を踏ん張った。香苗だ。どしんと衝撃が走って、年々強くなってくる力に負けそうになりながら、わたしはスリッパを滑らせてなんとか耐えた。左脚を経由して腰に巻き付いた香苗は、わたしの顔を見上げるなり声を張った。
「おねえねえ! ふっさふさ!」
「何が? あんたの目には、何が見えてんの?」
わたしが顔を覗き込むと、香苗はさらに確信したみたいに笑った。わたしの呼び方は、公式だと『姉』。智香は照れくさそうに『マリン姉ちゃん』と呼び、香苗は言葉を話せるようになって二年ぐらいは、二人の姉のことを『ねえね』と呼んでいて、最近はより年長の姉を敬う気持ちが増したのか、わたしだけが少し丁寧な『おねえねえ』に進化した。遠くでわたし達のやり取りを見ている智香は、最近はいかに自分が大人かということを証明するのに必死で、わたしの左半身にまとわりつく香苗を見ながら、『これだから子供ってやつは』という表情をキープしている。確かに智香は、昔から左脚には懐いてこなかった。もっと激しくて、顔面か背中だった気がする。
キッチンの空気がふわりと動き、お母さんがラスボスのように登場した。
「真凛、おかえり。買い物ありがとね。走った?」



