夢のあれこれ
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、説定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和6年10月時点のものです。お話の中には、事実に基づいた事件について書いていることもあれば、政治的意見も述べていますが、どちらも、「皆さんの代弁」というつもりで書いております。今回の事件も、「どこかで聞いたような」ということを思われるかも知れませんが、あくまでもフィクションだということをご了承ください。
プロローグ
ある日の夜、一人の男性が、交通事故に遭った。轢いた車の運転手が、びっくりしてすぐに救急車を呼んだ。
処置は早かったので、
「助かるかも知れない」
ということであったが、病院に運ばれて、手術室に入った時には、すでに手の施しようがない状態だったということで、それでも、何とか助けようと、医者は頑張ってくれたとのことであったが、結局、数時間の手術の結果、
「できるだけの努力はいたしましたが」
と、恐縮そうに主治医が言ったが、結局、助かることなく、この世を去ることになったのであった。
亡くなった男性は、
「秋山義男」
という名前だった。
警察にも事故の報告が行われたので、手術の間に、所持品の運転免許証から、本人確認ができ、急いで身内に連絡が取られたので、病院に急行してもらえるように手配はしたが、父親も母親も、取るものもとりあえずにやってきたが、
「時すでに遅く」
ということで、到着した時は、顔の上に、布が掛けられていたのだった。
「義男」
といって、震えながら息子に近づく両親は、年齢的には、まだ初老くらいではないかと思えるのに、信じられないという状況に、震えと腰が曲がってまっすぐになりそうもない様子を見ていると、
「もう70代近いのではないか?」
と思えるほどにやつれていた。
医者や看護婦は、今までに、いやというほどこのような光景には立ち会っているにも関わらず、
「慣れるということはない」
と思っているだろう。
というよりも、
「慣れたくなんかない」
という思いが強く、
「慣れると本当は楽なんだろうけどな」
というジレンマに襲われているのを、理不尽だという思いを感じているのではないだろうか?
その場の雰囲気は、いくら慣れている、医者や看護婦であっても、初めてのはずのことが、何の前触れもなく、いきなり襲ってきた家族や縁者との間の空間に作られた、実に嫌な空気を、共通して感じているに違いない。
それはまるで、
「この空間に、今まで生きていた人が、魂だけになってさまよっている空間が次元をたがえる形で存在し、そこには、この場で死んだ、無数ともいえる魂が、新しい仲間を得て、あの世とこの世の間の不思議な次元をまたいだ空間を作っている」
という感覚になっているに違いないと思うであった。
この場にいるのは、まず、
「主治医と看護婦が二人」
一人は、医者についている人であり、もう一人は、
「臨終」
ということで、
「遺体に対して敬意を表しながら、死後のケアを行う」
というものである。
完全に、事務的ではあるが、厳かなことであるというのが、
「敬意を表する」
ということで、遺族とは別の感情を抱いていることであろう。
なんといっても、さっき会ったばかりで、しかも、すでに意識がなく、生死の境をさまよっているという状態だったということで、気持ちが移入するということはなかなかないだろう。
ただ、この場の雰囲気は独特で、相手が誰であろうが、
「死に直面している」
というところにおいて、しなければいけない厳かさというのは、わきまえているだけに、悲しんでいる親族を、気の毒だとは思いながらも、自分も、感情に任せてその気持ちをあらわにできないというジレンマから、遺族に対して、
「うらやましい」
という気持ちになるというのが、
「この状況における、医療従事者の悲しいとことだ」
と、割り切るしかないということになるだろう。
実際に、この場面において、それぞれの立場というか、状況によって、まったく違った立場の人間が、精神的にはまったく違う態度を取っていることで、
「同じ空間なのに、異様な雰囲気だ」
ということで、それこそ、
「次元の違い」
というものが感じられるのではないかと思うのであった。
とにかく、一番悲しいのは、間違いなく家族である。
だから、家族は、
「感情に任せる」
という形で、終始悲しんでいるのであった。
ただ、医者は、そうはいかない。
一人の患者が亡くなったといっても、他に苦しんでいる患者がいたり、苦しんでいる患者が、今にも飛び込んでくることだってあるわけだ。
いつまでも悲しんでばかりはいられないということで、少なくとも、気持ちはずっと張り詰めておかなければいけないだろう。
そんな様子を、遺族は、
「冷たい」
と思ってみているかも知れないが、実際には、遺族は、そこまでの精神的な余裕があるなどということはないだろう。
また、今回の
「死亡」
というのは、その原因が、交通事故だったということで、死亡した人というのは、
「交通事故の被害者」
ということになる。
殺人などということではないので、捜査をして、犯人を突き止めるということはない。
実際に、交通事故を引き起こした人は、自分から、警察や救急車に連絡を取り、キチンとした処置を取ったのだ。
交通事故の加害者としては、できるだけのことはしたということで、
「轢いてしまった」
ということが、不可抗力だということであれば、
「加害者としては、あくまでも、業務上過失致死」
ということだけの犯罪となるであろう。
もし、これが、少しでも逃げたということになれば、
「ひき逃げ犯」
ということになり、いくら後で警察に出頭したとしても、いったんその場から立ち去ってしまったのであれば、
「ひき逃げ」
ということになる。
というのは、ひき逃げの場合の罪状というものが、どういうものなのかということを考えれば、分かることであろう。
普通の交通事故であれば、
「轢いてしまってから、まず、救急車を呼んで、自分ができることとして、その人がさらに危険な目に遭わないように、道の端によける」
ということを行うだろう。
そして、次には、
「警察に通報する」
ということである。
基本的には、
「交通事故を起こしてしまった」
という時に、加害者がしなければいけない、共通の行動だといってもいいだろう。
つまりは、
「現場から立ち去ってしまう」
ということは、簡単にいえば、
プロローグ
ある日の夜、一人の男性が、交通事故に遭った。轢いた車の運転手が、びっくりしてすぐに救急車を呼んだ。
処置は早かったので、
「助かるかも知れない」
ということであったが、病院に運ばれて、手術室に入った時には、すでに手の施しようがない状態だったということで、それでも、何とか助けようと、医者は頑張ってくれたとのことであったが、結局、数時間の手術の結果、
「できるだけの努力はいたしましたが」
と、恐縮そうに主治医が言ったが、結局、助かることなく、この世を去ることになったのであった。
亡くなった男性は、
「秋山義男」
という名前だった。
警察にも事故の報告が行われたので、手術の間に、所持品の運転免許証から、本人確認ができ、急いで身内に連絡が取られたので、病院に急行してもらえるように手配はしたが、父親も母親も、取るものもとりあえずにやってきたが、
「時すでに遅く」
ということで、到着した時は、顔の上に、布が掛けられていたのだった。
「義男」
といって、震えながら息子に近づく両親は、年齢的には、まだ初老くらいではないかと思えるのに、信じられないという状況に、震えと腰が曲がってまっすぐになりそうもない様子を見ていると、
「もう70代近いのではないか?」
と思えるほどにやつれていた。
医者や看護婦は、今までに、いやというほどこのような光景には立ち会っているにも関わらず、
「慣れるということはない」
と思っているだろう。
というよりも、
「慣れたくなんかない」
という思いが強く、
「慣れると本当は楽なんだろうけどな」
というジレンマに襲われているのを、理不尽だという思いを感じているのではないだろうか?
その場の雰囲気は、いくら慣れている、医者や看護婦であっても、初めてのはずのことが、何の前触れもなく、いきなり襲ってきた家族や縁者との間の空間に作られた、実に嫌な空気を、共通して感じているに違いない。
それはまるで、
「この空間に、今まで生きていた人が、魂だけになってさまよっている空間が次元をたがえる形で存在し、そこには、この場で死んだ、無数ともいえる魂が、新しい仲間を得て、あの世とこの世の間の不思議な次元をまたいだ空間を作っている」
という感覚になっているに違いないと思うであった。
この場にいるのは、まず、
「主治医と看護婦が二人」
一人は、医者についている人であり、もう一人は、
「臨終」
ということで、
「遺体に対して敬意を表しながら、死後のケアを行う」
というものである。
完全に、事務的ではあるが、厳かなことであるというのが、
「敬意を表する」
ということで、遺族とは別の感情を抱いていることであろう。
なんといっても、さっき会ったばかりで、しかも、すでに意識がなく、生死の境をさまよっているという状態だったということで、気持ちが移入するということはなかなかないだろう。
ただ、この場の雰囲気は独特で、相手が誰であろうが、
「死に直面している」
というところにおいて、しなければいけない厳かさというのは、わきまえているだけに、悲しんでいる親族を、気の毒だとは思いながらも、自分も、感情に任せてその気持ちをあらわにできないというジレンマから、遺族に対して、
「うらやましい」
という気持ちになるというのが、
「この状況における、医療従事者の悲しいとことだ」
と、割り切るしかないということになるだろう。
実際に、この場面において、それぞれの立場というか、状況によって、まったく違った立場の人間が、精神的にはまったく違う態度を取っていることで、
「同じ空間なのに、異様な雰囲気だ」
ということで、それこそ、
「次元の違い」
というものが感じられるのではないかと思うのであった。
とにかく、一番悲しいのは、間違いなく家族である。
だから、家族は、
「感情に任せる」
という形で、終始悲しんでいるのであった。
ただ、医者は、そうはいかない。
一人の患者が亡くなったといっても、他に苦しんでいる患者がいたり、苦しんでいる患者が、今にも飛び込んでくることだってあるわけだ。
いつまでも悲しんでばかりはいられないということで、少なくとも、気持ちはずっと張り詰めておかなければいけないだろう。
そんな様子を、遺族は、
「冷たい」
と思ってみているかも知れないが、実際には、遺族は、そこまでの精神的な余裕があるなどということはないだろう。
また、今回の
「死亡」
というのは、その原因が、交通事故だったということで、死亡した人というのは、
「交通事故の被害者」
ということになる。
殺人などということではないので、捜査をして、犯人を突き止めるということはない。
実際に、交通事故を引き起こした人は、自分から、警察や救急車に連絡を取り、キチンとした処置を取ったのだ。
交通事故の加害者としては、できるだけのことはしたということで、
「轢いてしまった」
ということが、不可抗力だということであれば、
「加害者としては、あくまでも、業務上過失致死」
ということだけの犯罪となるであろう。
もし、これが、少しでも逃げたということになれば、
「ひき逃げ犯」
ということになり、いくら後で警察に出頭したとしても、いったんその場から立ち去ってしまったのであれば、
「ひき逃げ」
ということになる。
というのは、ひき逃げの場合の罪状というものが、どういうものなのかということを考えれば、分かることであろう。
普通の交通事故であれば、
「轢いてしまってから、まず、救急車を呼んで、自分ができることとして、その人がさらに危険な目に遭わないように、道の端によける」
ということを行うだろう。
そして、次には、
「警察に通報する」
ということである。
基本的には、
「交通事故を起こしてしまった」
という時に、加害者がしなければいけない、共通の行動だといってもいいだろう。
つまりは、
「現場から立ち去ってしまう」
ということは、簡単にいえば、



