小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」
オオサカタロウ
オオサカタロウ
novelistID. 20912
新規ユーザー登録
E-MAIL
PASSWORD
次回から自動でログイン

 

作品詳細に戻る

 

Ink

INDEX|4ページ/5ページ|

次のページ前のページ
 

 おれが矢野を選んだことがいじめの原因だと、木下はいずれ週刊誌に話すだろうか。でも、それなら同時にいじめを認めることになるから、自分も被害者ぶりたいならわざわざ語ることはないはずだ。普通なら。
 ただ、今の木下は二度と自分の足で歩けない『被害者』だ。
 そんな人間が何を考え付くかなんて、過去をとうに捨てて普通に生きているおれには、分かりようがない。

   
-----------------
 
 
 わたしは、生まれてから小学校を卒業するまで、ずっと何かに殺されかけていた。最初は両親で、次は兄。どうにか逃げた先には必ず何かの『条件』や踏み抜いてはいけない『罠』が仕掛けられていて、勘の悪い子どもだったわたしは、そういった穴にことごとくハマって、その代償を拳骨やいじめで支払うことになった。兄はかなり年が離れていて、わたしが小学校に入るころはすでに高校卒業間際だったから、十歳以上年上だった。兄がすくすくと育っていく中、何故かこの世に発生した生き物。それがわたしで、ご飯も食べれば風呂にも入るし、髪は伸びるし、冬になると一人前に風邪を引いて高熱を出した。
 今思えば、両親はその度にわたしに用意された人間としての『権利』をいちから思い出す必要があり、大変だったのだろうと思う。そして、その苦労があったからか両親の仲は常に悪かった。わたしが小学校三年生のときに離婚し、兄は母が引き取り、わたしは最初から分かっていたことだが、ここで別の道を歩むことになった。わたしを引き取ってくれた叔母さんは仕事人間で、夕方に家にいること自体がまれだったから、すぐに家の鍵をくれた。
 でも、叔母さんの家にひとりでいるのは落ち着かなかった。自分を包む薄い空気からちょっとでも離れたら、それは外の世界。叔母さんとわたしは、物理的に同じ空間に存在しているだけで、そこには何の繋がりもなかった。だから家の鍵をもらっても、叔母さんが帰ってくるまでは外でぶらぶらしていた。
 ひとりで外にいるのは危ないから、学童にいなさい。叔母さんにそう言われて、わたしは放課後は学童へ通うことになった。そして、悟った。今までわたしを『殺そうとしてきた』人間はたくさんいると思っていたが、あれは甘噛み程度のものだったと。到底力で叶わない人間にはその力で暴力を振るわれ、ずる賢い人間からはカモとして重宝された。わたしはどこへ行っても、自分が最弱だということを示し続けていた。
 今、こうやって廊下に立っていると、単純な強弱という概念で自分を推し量っていた昔を思い出す。人間に備わった機能の中で、最も原始的なもの。結局のところ、それは拳骨だ。どんな状況であっても、一時停止ボタンのような役割をしている。
 それは、矢野が四人を刺したときに周囲の人間が一歩も動けなかったのと、同じことだ。
 埃が立つ廊下で深呼吸をすると、全てをひっくり返した小学校五年生の冬が頭に浮かんだ。暴力は、明らかにエスカレートしていた。当時、配達のおじさんから貰ったニット帽を被っていたが、後ろからカチンと音が鳴って、気づいたら自分の左耳が燃え上がっていた。転げ回ってなんとか火を消したわたしを見てゲラゲラ笑っていたのは、チャッカマンを持っていた糸田とその妹、そして腰巾着だった和久井。三人のサンドバッグがわたしの役割だった。もう、細野咲子という名前すら、矛盾しているように感じた。咲かせるつもりなんか最初からなかったくせに、両親は変な名前をつけたものだ。
 火傷をどうやってごまかすか考えていたとき、すでに卒業した中学生が土産を持って現れ、学童スタッフの関さんと談笑しているのが見えた。関さんは悪い人じゃなかったけど、糸田兄妹や和久井を抑えられるほど強くもなかった。中学生はわたしの方を見るなり、つかつかと寄ってきて、耳をじっと見つめた。
『誰にやられた?』
 わたしは返事の代わりに名前を言い、焼け焦げたニット帽で耳を隠した。その中学生は矢野と名乗った。単に名前を告げただけだったが、口に出すという行為はおまじないのように効いた。そして、一ヶ月も経たない内に事件が起きた。
 わたしが伝えた名前の通りに、人が消えたのだ。あの日、ぶよぶよと太った右手にチャッカマンを持っていた糸田と、その隣で笑っていた妹、二人の機嫌を取っていた和久井。わたしはその中から、妹の糸田美与を選んだ。小学校四年生だった美与は、もうどこにもいない。兄を選ぶこともできた。でもわたしは、悲しさが人を変えるということを知っていた。
 妹の美与を選んだのは、チャッカマンを持っていた糸田に悲しい思いをしてほしかったからだ。歪むならそれでもいいし、朽ちるならそれ以上嬉しいことはない。そして、糸田は後者を選んだ。死ぬことはなかったが、『行方不明の娘を持つ両親』の相手をしている内に、生きる力を吸い上げられてしまったようだった。
 矢野はそれからも頻繁に訪れた。しかし、恩知らずだったわたしは矢野が美与の失踪に関わっていることを知っていたからこそ、上手く話すことができなかった。でも、メールや電話なら二人だけのやり取りだし、大丈夫かもしれない。そう思ったわたしは、勇気を振り絞って連絡先を交換した。矢野が善人じゃないということは、分かっている。でも、わたしを蟻地獄に迎え入れるのと同時に、命を救ってくれたのは確かだ。美与が本当の犯人じゃないということぐらい、矢野はお見通しだったはずだ。
 そうやって、自分が選んだ名前がこの世から消えた。
 その記憶から逃げ出すことは、わたしには結局できなかった。だから、高校で不登校になってからはずるずるとレールから落ちていき、三十歳をちょうど過ぎた今になっても、雑誌記者の名刺を偽造するぐらいの技術しか持ち合わせていない。他にできることと言えば、配達員のふりとか。
 わたしは、部屋をもう一度見て回った。これだけ普通の人生を手に入れたなら、高校時代のことを思い出したくないというのも、分かる気がする。どことなくパステルカラーでコーディネイトされているのは、妻の趣味だろうか。
 矢野は退学するときに、木下にこう言われたらしい。
『浅尾くんのご指名でした』
 矢野がどうして、こんなことをわたしに教えたのか。当時十五歳だった自分には、その意味がよく分かっていなかった。今なら理解できる。矢野は、教える相手を指折り数えようとしたが、同じ蟻地獄の中にいるわたし以外に思いつかなかったのだろう。そして、同じ視点に立っているからこそ、分かることもあった。おそらく矢野は木下を殺し損ねたのではなく、狙いすまして『あの状態』にした。死んでしまえば、解放されてその業は終わってしまうからだ。
 そして、自分が名前を選んだことで矢野の人生を狂わせたと自覚している浅尾の頭の中も、わたしには手に取るように分かる。その境遇は皮肉なことに、わたしが美与を選んだ状況と少し似ているからだ。
 結局は、生き延びるためにやったことだ。だからといって、そこに罪がないわけではない。だから、わたしは受け入れた。
作品名:Ink 作家名:オオサカタロウ