悠々日和キャンピングカーの旅:⑭西日本の旅(北部九州)
大津にはホンダの2輪工場の熊本製作所があるので、せっかくなので寄ってみたくなり、と言って、敷地内や工場内には入れないはず。工場の正面ゲートの交差点の信号で止まった時に、その写真を撮っただけで、通過した。立派なゲートだった。
大学生の頃、サークルの後輩と一緒に、彼のクルマに乗って、この工場の隣にあるモトクロス場で開催された大会を見に行ったことがある。確かその日は、雪が降っていて、大会を見ている間に、彼のクルマの上に雪が積もってしまい、大学に戻ってきた時もまだ雪は残っており、キャンパスを歩く大学生の注目を浴びていた。
当時、ホンダの熊本製作所は小排気量のバイクを生産する工場だったが、今は、2輪事業をここに集約して、開発から生産までやっているようだ。
大津から熊本市内までは、バイパス風の立派なR57は走らず、県道になってしまった旧R57を走った。
この道は、豊肥本線と並んで走る区間が長く、前述の「阿蘇耐久遠歩大会」の際に歩いたこともあり、バイクで走ったこともある懐かしい場所で、思い出の道だ。
ところが、この道の豊肥本線側の、「遠歩大会」では疲れながら歩いた歩道が無くなっていた。道の拡幅のために、そうなったのか。思い出の場所がひとつ無くなったのは残念だった。
やがてJR竜田駅前を通過して、その先の「黒髪(くろかみ)6丁目」の看板で、一気に学生時代に戻ってきた気がした。熊本大学は黒髪町にあるからだ。
当時、この道をバイクや自転車で走った際は特に感じるものはなかったのだが、キャンピングカーで走ると、道幅の狭さを痛感した。そこに原付が走ると、追い抜くこともできず、ノロノロ運転になってしまう。ごちゃごちゃした道だったと今さらながら、そう認識した。
もう時効なので告白するが、学生の頃、パトカーを振り切って、ヤマハDT250のバイクで逃げ切ったことがある。
それは、この道が渋滞していた夕方、前を走るクルマの横をすり抜けることもできない状況で、追い越し禁止の道だったが、対向車線に出てクルマの列を抜いて行ったところ、そのクルマの列にはパトカーがいて、いきなり赤いパトライトが点灯し、サイレンの音が聞こえた。それに驚きながらも、良く知っているエリアだったため、国道の脇道に入り、さらにその先の脇道を走り抜け、最後は、病院の中の植木の陰に逃げ込み、暫く隠れていて、事無きに終わった。そして、念のため、近くの後輩のアパートに2時間ほど居させてもらい、深夜に、私のアパートまで戻ることができた。このような、たいへんな思い出もある黒髪町だ。
大学を囲む土塁が見えてきた。この旧国道の両側が大学のキャンパスで、右側が教養部や文系の学部の「北キャンパス」で、左側が理系の学部の「南キャンパス」だ。医学部は少し離れた場所にある。
「北キャンパス」の入口が、煉瓦造りの正門、通称「赤門」がある。そこからキャンパスに入る前に、「赤門」の前に「ジル」を停めて、「赤門」を背景にした「ジル」の写真を撮りたかったのだが、「赤門」の前の広いスペースには車止めがあり、「赤門」に入れないどころか、その前に「ジル」を停めることすらできない状況になっていた。
そのため、左折して「南キャンパス」に入った。
ところが、そこには、学生の頃にはなかったゲートがあり、「赤門」側の変わり様と同様、色々と変わっていた。
一般的には、ゲートの発券機から出てくる駐車券を入手して、面会先でサインをしてもらったり、用事が終わった際には守衛などの受付にその旨を報告したりして、ゲートを開けてもらうのだが、この時は、駐車券の発券もなく、ゲートも自動的に開き、通過することができた。
ゲートの横にいたガードマンに訊いたところ、休日はチェックがないとのことだった(現在もそうなのかは不明)。ここの卒業生で懐かしくなり立ち寄った旨を説明すると、今日は大学は休みなので、駐車場が空いており、そこに停めても構わないと教えてくれた。
そこに「ジル」を停めた時、太陽光が当たった銀杏(いちょう)が印象的で、それと校舎の一部を背景に「ジル」の写真を撮り終えた時、1台のクルマが横に停まった。
中から出てきたのは20代の女性で、学生さん?と訊くと大学院生とのこと。クルマで通学とは、私が学生だった頃とはずいぶん違うねと話すと、熊本市の南側の20km離れた宇城市松橋(うきし・まつばせ)からの通学で、鉄道やバスなどの乗り換えがたいへんだという。私は約40年前に卒業し就職して・・・・と私のキャリアを紹介すると、彼女は既に就職は決まっていて、修士論文に今、取り組んでいるという。そして、工学部建築学科の校舎に入って行った。
6年間も通った懐かしいキャンパスを歩きながら「思い出に浸る旅」が始まった。
旧R57を渡って、「北キャンパス」の入口の「赤門」の前で、セルフタイマーで記念撮影をした。その写真をあとで眺めたところ、片隅に「重要文化財 旧第五高等中学校表門」と記された石碑があった。 夏目漱石が第五高等学校(第五高等中学校の後身)の英語教師として教鞭を執る前から、この「赤門」が作られたことを知った。ちなみに、漱石は熊本に赴任する前に愛媛県の松山で教鞭を執っていた。
「赤門」からは先ず「学生会館」の建物に入った。ここには学生生協の売店や食堂があり、ほぼ毎日、お世話になった場所だった。売店は閉まっていたので、食堂に行ったところ、電灯が付いておらずドアも閉まっていて、推薦入試云々で文部省の通達により食堂の営業はしていないとの張り紙があり、残念ながら何も食べることができず、舌で当時を懐かしむ機会を失ってしまった。ここのメニューはどれも安価で、特に定食とカレーにはホントにお世話になったものだ。
そして「五校記念館」に向かった。熊本地震で被災した建物の復旧工事が行われていて、ぐるりと塀で囲まれていて、煉瓦作りの外観はほぼ見えなかった。もちろん入館はできなかった。
西隣には、400mトラックのエリアとその2倍のグランドが広がる「武夫原(ぶふげん)」と呼ばれる運動場がある。当時、夕方からは運動サークルの部員たちの声が聞こえていた。その南隣には体育館があり、バスケシューズの床を擦る音や声援などが響いていた。
運動サークルに入っていなかった私には縁のないグランドだったが、ここで開催された工学部の運動会に2回ほど参加したことがあり、それはたいへんな運動会だった。
二つの学科でひとつのチームを作り、5チームが競う運動会だ。ちなみに、私の学科は金属工学科で、資源開発工学科と組み「採冶(さいや)チーム」を編成した。
運動会の競技種目は、速さや多さを競う競技以外に、力で相手をねじ倒す「棒倒し」と「騎馬戦」もあり、そりゃもう大変な競技いや格闘だった。戦いが始まる前に景気付けで酒を飲んで・・・、今では考えられない内容で、喧嘩のようなすさまじい格闘だった。
初めて参加したのは2年生の時の運動会で、幾つかの競技に出ることになった。その中でも、しっかりと記憶している「棒倒し」で、残念ながら負けてしまったが、体のあちらこちらに痛みが残る壮絶な戦いだった。
作品名:悠々日和キャンピングカーの旅:⑭西日本の旅(北部九州) 作家名:静岡のとみちゃん



