ヒトサシユビの森
樹々の間を突き進む。
途中で乗り捨てたバイクを飛び越して、山をくだる。
ときには山肌を滑り落ちるようにして、距離を稼ぐ。
そうしてかざねは、ようやく小暮沢を見おろす峠道まで辿りついた。
ひと息ついて後ろを振り返ると、大きな黒い影があった。
それは巨体をゆすって迫ってきた。
「ヤバい」
道の片側は崖のような急斜面。
もう片側は低木の枝葉が入り組む藪。
逃げ場がなかった。
かざねは走った。
痛みをこらえて全力を振り絞って走ったが、クマの速さは見た目以上だ。。
距離を縮められつつあった。
峠道の先に何かがいた。
獣か。
近くまで行くと、それはシカだった。
角が生えた牡鹿であった。
「挟まれた?」
かざねが立ちすくんでいると、牡鹿が小走りに接近してきた。
ぶつかりそうになって、かざねは身を屈めた。
牡鹿は、かざねの手前でジャンプした。
かざねを飛び越えて、牡鹿はかざねとクマの間に着地した。
クマは後ろ足で立ちあがって、牡鹿に向かって大きく前足を振りあげた。
しかしクマの獰猛さは、急激に影を潜めた。
クマは四つん這いになり、牡鹿と顔を突き合わせた。
まるで語り合う旧友同士のように、牡鹿とクマは連れだって藪のなかに入っていった。
藪に消える寸前、牡鹿がかざねのほうを振り返った。
うずくまるかざねと、牡鹿の目が合った瞬間、かざねの心のなかにイメージが浮かんだ。
母・雪乃のイメージだった。
雪乃と過ごした二十数年が、瞬時に蘇った。
子どもの頃、かざねは雪乃の言動を受け入れることができず、反発ばかりしていた。
さちやを授かったときに、ようやく雪乃の気持ちが理解できるようになった。
思い返すと、母はいつのときも、あたしを愛してくれていた。
母はどんなときも、あたしの味方だった。
雪乃は、優しくかざねに微笑みかけた。
やがて雪乃のイメージは、潮が引くようにかざねの心の中から消えた。
「母さん」
牡鹿が消えた藪を見ながら、かざねは心の中で手を合わせた。
峠道から命の危機は去った。
だが感傷に浸っている時間はなかった。
かざねは息をつく間もなく、足を前に運んだ。
ぬかるんだ獣道を行き、バイクの轍を追い、荒れ果てた遊歩道を下った。
そうしてかざねは、ついに地蔵の祠のある側道に辿りついた。
そのまま、疲れた足取りで側道をくだった。
ふらふらと彷徨うように歩き、かざねは夜の県道の真ん中に立った。
突然、眩しいライトを、かざねは浴びた。
風圧に押されるままに、かざねは身を翻した。
クラクションの音とともに、大型トラックがかざねの横を通り過ぎた。
トラックを見送った後、かざねは県道の上り下り双方の車線に聞き耳を立てた。
他に車が近づいてくる気配はなかった。
そのとき、側道の奥でライトが光った。
2つのライトが山から降りてきているようだった。
尋常ではないスピードだ。
それは瞬く間に、かざねが視認できる範囲まで近づいた。
2つのライトと思われたものは、それぞれに大小2つのライトを持つ乗用車だった。
健市が運転するソアラに違いない。
そう思ったかざねは、側道の入口に立って、足を踏ん張った。
ソアラが地蔵の祠を通り過ぎた。
かざねは、健市から見えるよう、両手を大きく広げた。
命に代えても、ここを通さない。
無駄に終わるかもしれない。
それでもソアラを停める手が、他になかった。
強い思念を込めて、かざねは迫りくるヘッドライトを凝視した。
ソアラは速度を保ったままだ。
そのとき、かざねの視線の先に、小さな物体が漂っているのが見えた。
路上を飛ぶ虫のようでいて、虫とは異なる動きをしていた。
気にするようなことではないと思いつつ、気になった。
それが何なのか判別できなかったが、目の錯覚などではなかった。
それは路面から1メートルほどの高さでぴたりと動きを止め、空中で静止した。



