ヒトサシユビの森
「やめろ、やめろ! 来るな、来るな!」
両腕を振り回し、足を蹴りあげながら、玉井は狂ったように旧参詣道を駆けのぼった。
時折、顔や首、腹や太腿など至るところを掻きむしった。
小突かれる感覚は止まらず、身をよじらせながら稲荷山中腹にある稲荷神社に辿りついた。
神社の境内では宮司がひとり、竹ほうきで落ち葉を掃き集めていた。
宮司の姿を認めて玉井が思わず吐いた。
「宮司、助けてくれ」
尋常ではない玉井の形相を見た宮司が答えた。
「どうかされましたか、玉井さん」
「悪霊だ。子どもの悪霊に憑かれた」
「はて? 悪霊と?」
「見えるだろ?」
「どこですか」
宮司は首を回して、それを探した。
「見えませんけど」
それは姿を消した。
玉井は狼狽えながら周囲を見回してそれを探した。
それは中空の高いところにいた。
「あれ」
玉井は指さすと、それは猛スピードで玉井に向かって落下してきた。
玉井は目を閉じて、両手で頭を隠した。
目を開けると、それは宮司の頭の上を漂っていた。
宮司が穏やかな口調で言った。
「玉井さん、お話を伺いましょうか」
宮司の声が玉井の耳に届く前に、玉井は大声を発した。
首の後ろに何かが触れるのを感じた玉井は、後頭部を両手で押さえながら、バタつく足取りで林のなかに逃げこんだ。
宮司は首を傾げた。
「はて、さて」
集めた落ち葉を、宮司は塵取りに寄せ集めた。
稲荷神社から小暮沢方面へ、玉井は転がり落ちるように山を下った。
谷間にかかる吊り橋が見えたあたりで、玉井は立ち止まり肩で息をした。
無意識のうちに玉井の足は、天狗岳の山麓にある丸太小屋を目指していた。
小屋に逃げこめば、なんとかなる。
小屋には猟銃もある。
猟銃を手にすれば、この邪気を追い払えるような気がした。
知らぬ間に、小突かれる感覚はなくなっていた。
玉井は息を整えながら、時には後ろを振り返りながら、吊り橋の袂に辿りついた。
吊り橋は、役所の技術部によって施された補強部材が、すでに取り除かれた後だった。
以前の吊り橋の姿が、そこにあった。
老朽化してはいるが、踏む敷板を間違わなければ成人男性でも十分に渡れることを、玉井は知っていた。
その認識のもと、玉井は橋を渡り始めた。
玉井が敷板を踏むと、それは中ほどから緩く折れ曲がった。
さらに体重をかけると、メキメキと音を鳴らしささくれだった。
慎重に次の敷板を選んで、歩を進める。
玉井は吊り橋の真ん中まで渡りきった。
吊り橋はワイヤーを軋ませてゆらゆらと揺れるものの、安定を保っていた。
玉井はさらに一歩、足を敷板に乗せた。
その瞬間、敷板がバキっと音をたてて割れ落ちた。
玉井はバランスを崩し、身体をひねりながら倒れこんだ。
やみくもに振り回した手に、かろうじてワイヤーの1本が触れた。
玉井はそれをしっかり掴んだが、身体は吊り橋の下で宙吊りになった。
敷板の欠片が、ハラハラと下を流れる笹良川に水面に落ちた。
水面まで10メートルはあろうか。
足がすくむ高さだ。
人が落ちれば、骨折では済まないだろう。
打ちどころが悪ければ命にかかわる。
玉井はワイヤーを握る片手に、力を込めた。
ワイヤーを伝っていけば向こう岸まで渡れる。
そう考えた玉井は両の手でワイヤーを掴もうと、身体を揺すって空いた手をワイヤーに伸ばした。
しかし上手くいかない。
蹴りあげた足をワイヤーに引っ掛けようと試みたが、それも失敗した。
逆にワイヤーを握る手に負担がかかった。
徐々に力が入らなくなってきた。
小指がワイヤーから外れた。
親指はすでに戦力外だ。
残りの3本の指で、玉井は体重を支えた。
ぐいと力を込めた薬指の先端に、外部から圧がかかった。
ワイヤーを握ろうとする力と真逆の力が先端にかかり、薬指は伸びきってしまった。
指2本で吊り橋にぶら下がっている玉井。
その玉井の中指に、ワイヤーから引き剥がそうとする得体の知れない力が働いた。
ぎゃぁぁぁ。
谷間に玉井の叫び声が轟いた。
玉井は吊り橋から落下し、笹良川の水面に叩きつけられた。
水しぶきがあがり、その音に驚いた野鳥が舞い飛んだ。
玉井は背中から落ち、両足を水面に激しく打ちつけた。
幸いにも川底の砂利がクッションの役目を果たし、命は落とさずに済んだ。
身体の一部は、どこか骨折している恐れはあるものの、重篤な状態ではなかった。
玉井は水を掻いて、岸辺を目指した。
小突かれる感覚も、指の幻影もなかった。
玉井は足を引きずって、川岸に身体を投げ出した。
仰向けに倒れ、空を見上げた。
水色の空と流れる白い雲を眺め、足の痛みをこらえた。
すると、藪のほうから何かが近づいてくる葉擦れの音が聞こえてきた。
ドスンドスンという地響きを伴って、それは藪から現れた。
威嚇するような唸り声をあげたかと思うと、玉井の傍らで立ちあがった。
空を覆い隠さんばかりの大きさだ。
玉井はその獣を見あげた。
そして、許しを請うように頭を下げた。
地面に額をこすりつけ、涙を流した。
恐怖に怯える玉井の銀髪の後頭部めがけて、それは4本の鋭い爪を振りおろした。



