ヒトサシユビの森
ゴルフバッグを後部座席に積んだコンバーチブルのアウディが、稲荷山の麓の県道を疾走した。
運転しているのは、金糸の刺繍が入ったゴルフウェアを着ている玉井聡。
茶髪から銀髪に染めかえた髪を,風に靡かせた。
助手席では、若い女性がカーオーデイオから流れるユーロビートに身体を揺らせドライブを楽しんでいた。
不意に玉井が身体をよじらせた。
「よせよ、運転中だぞ」
玉井が前を向いたまま、女性に言った。
「えっ?」
女性は怪訝そうに、驚いてみせた。
「だから、よせって」
「私、何もしてないわよ」
玉井はしきりに身体をくねらせた。
女性は「変なの」と言ったきり、流れる景色に身を任せた。
脇腹から鳩尾、胸元へと小突かれるような感覚に玉井は襲われていた。
運転に集中しないと。
玉井は前方を見つめた。
深夜に丸太小屋で健市と落ち合う。
いぶきを預かった後、下越方面へのドライブが待っていた。
妙な感覚は依然として続いた。
その感覚は喉元に達し、ウッと口を開いた。
その瞬間、何かが口から喉の奥に滑りこんだ。
息苦しくなった玉井は、スピードを落とすしかなかった。
激しく咳きこんだため運転に支障をきたし、車をいったん路肩に停めた。
「どうかした?」
女性が玉井を気遣った。
玉井は口を開いたまま、女性のほうを見た。
助手席にいたのは大人の女性ではなく、小さな子どもだった。
さちやに似ていた。
「わっ」
と大きな声を出し
「出て行け」
足蹴にした。
「何よ」
足蹴にされた女性は、「キモッ」と怒って車から降りた。
口内に違和感を覚えた玉井は、口の中に手を突っこんだ。
その違和感の正体を掴もうと試みたが、指先が血に染まるだけで、そのものに触れることはできなかった。
ようやく正常に呼吸ができるようになった。
深呼吸して前を向くと、視界がまだらに赤い。
フロントガラスに、びっしりと子どもの手形がついていた。
人差し指が欠けた子どもの手形が、血に染まっていた。
玉井は慌ててワイパーを動かした。
大量の子どもの手形は、瞬時に消え去った。
心臓の鼓動が早くなり、玉井は再び咳こんだ。
玉井の口から、何かが飛びだした。
それはダッシュボードに跳ね返り、玉井の眼前でピタッと止まった。
節のある細長い物体。
丸みを帯びたフォルムは、柔らかい肌色をしている。
先端の一部は、他と質感が違って光沢があった。
指ではないのか?
玉井は目の前の異物を払いのけて、アクセルを踏み込んだ。
これは幻だ。
こんなものはいない。
自分に言い聞かせて、玉井はハンドルを握りしめた。
瞬く間にアウディは時速100キロの速度に達した。
だが、その指は玉井に鼻先の数センチのところに留まったままだ。
「くそっ」
音楽の音量をあげて現実逃避を試みるが、指の幻影は居座った。
やがてそれは、玉井の鼻の下に取りついた。
そして鼻の孔にせりあがる。
玉井は鼻の孔に侵入してくる異物の感覚に耐えられなくなった。
脳まで浸食される恐怖に怯え、急ブレーキをかけた。
アウディは、点滅信号の手前で停まった。
道路脇には稲荷山登山口の石段。
玉井は訳の分からないことを叫びながら、車を乗り捨て登山口に駆けこんだ。



