ヒトサシユビの森
かざねは、隣接する神室市のはずれにある製菓工場に勤めていた。
夜間帯の勤務である。
自宅のある石束から勤め先まで、車で約50分。
かざねがその店を選んだのは、夜間も預かってくれる託児所があったからだ。
週に3日、かざねは夕刻になるとさちやを中古の三菱ミニカに乗せ、勤め先に向かった。
仕事は午前4時に終わる。
そして夜明け前に帰宅する。
その夜もいつもと同じように、かざねはさちやを連れて帰宅の途についていた。
寝待月が雲間に隠れる深夜、墨絵色の曇天はさらに濃い漆黒となって夜空を覆い隠した。
幼児を乗せる際に義務づけられているチャイルドシートを、かざねは軽自動車には取りつけていなかった。
経済的理由で、購入を先延ばしにしていた。
車中のさちやは、斜め掛けに甘くロックされたシートベルトにかろうじて守られた。
シートベルトが作る空間に座り、ほぼ無言でソフトビニールの人形を相手に、ひとり遊びに興じた。
宇宙怪獣レッドキングと正義のヒーローウルトラマンの戦いだ。
どちらが勝利するか、さちやにもわからない。
終わりのない戦いが、さちやの眼前で繰り広げられた。
山間部を走る舗装道路は、車道照明がほぼ皆無だった。
月のない夜は、車道は深い闇に沈んだ。
かざねがハンドルを握るミニカのヘッドライトだけが闇を切り裂く。
右に左に大きく蛇行する道路を、軽自動車のハイビームが突き進んでいく。
対向車に出くわすことはほとんどなかった。
時おり小動物が飛びだしてくることがあったが、気づいて速度を落とした時にはもう、小動物は消えていた。
トンネルをひとつ抜け、峠をひとつ越える。
なだらかな坂道は、少しずつ谷の底に向かって下っていく。
やがてヘッドライトが、ガードレール越しに笹良川の護岸を映しだす。
ヘッドライトは川面の暗黒に吸収されるが、間違いなくそこにある川の存在を、かざねは感じることができた。
かざねとさちやを乗せたミニカは、緩やかに蛇行する笹良川の川沿いを走った。
川沿いの対向2車線をほどなく走ると、信号機がポツンと立っていた。
青・黄・赤が横に並ぶ、一般的な車両用信号機だ。
上りと下りで対になっている。
横断歩道もあった。
民家もなく車の通行も頻繁でない地区に場違いな信号機である。
その理由は、山のなかにあった。
信号機からほど近い斜面には、人が登れる石段が設えてある。
それは山深くへと伸びる山道へと続いた。
その山道は、山の中腹にある稲山神社に通じる参拝者のための参詣道のひとつであった。
第二次世界大戦までは神社に通じる表参道として使われていた。
しかし、戦後になって神社の近くまで道路が整備され、広い駐車場が作られた。
車を利用して神社に詣でる人が多くなるにつれ、人々の足は登坂ルートから遠のいた。
「稲山神社前」というバスの停留所が廃止されると、旧い参詣道の利用はさらに激減した。
ただ初秋に行われる例大祭のときにのみ、その旧参詣道は輝きを見せた。
氏子に扮した住民たちが、祭りの慣例に従って、この山深い参道を皆で登るのである。
そしてその信号機はまさに、その例大祭の交通整理のときのみ、大いに活躍を見せた。
逆に言うと、普段は黄色のシグナルを点滅させるだけのお飾り的な存在でだった。
しかし、かざねが通り過ぎようとしたその夜は、様子が違った。
その信号機は黄色の点滅ではなかった。
カーブを描く車道の先に、それは赤色の継続点灯のように、かざねの目には映った。
近づくにつれ、それは紛れもない赤信号とはっきりわかった。
その信号機は、普段は黄色点滅であるはず。
昼夜問わず、例大祭の日に役目を果たす以外は、黄色点滅が常なのである。
かざねは、その場所で赤信号に遭遇したことは、これまで一度もなかった。
不思議な気持ちを持ちつつ、赤信号でかざねは車を停止させた。
対向車もなく、横断歩道を利用する者もいない。
赤信号を無視して突っ走ることも考えられたが、助手席のさちやを見て、かざねは信号が変わるのを待つことにした。
かざねがさらに気になったのは路肩に立つ「工事中」の看板だった。
やけに大きく目立つ看板だった。
路肩の他に、上り下り2か所の信号機の足元にも、工事看板が立てかけられていた。
しかし見える範囲には、工事車両も工事現場らしき場所も視認できなかった。
ただ、そっけない看板がいくつか立っているだけである。
かざねは信号が変わるのを待ちながら、しばらくヘッドライトが照らす周辺の様子を窺いつつ考えを巡らせた。
今週初めに、この場所を通ったときのことを思い返した。
そのときに、看板を見た記憶はなかった。
赤信号と謎めいた工事看板は、何か関係があるのか。
先のほうで車両の通行を妨げるような工事をしているがために、信号が赤になったのか。
それとも別の理由で、信号のシステムが変更になっただけなのか。
かざねはタバコに火をつけ、赤信号が黄色点滅に変わるのを待った。
だが、信号機は赤のまま、一向に変わる気配がなかった。
隣では、レッドキングとウルトラマンの果てない戦いが続いている。
信号が変わるのが待ちきれず、信号無視をして通過することが頭を過ぎった。
さりながら、かざねは躊躇した。
万が一これがねずみ捕りの罠だったら、罰金もしくは免許停止。
免停になれば、たちまち仕事に差し支える。
かざねは
「ちょっと待っててね」
とさちやの頭をなで、タバコを加えたまま車外に降りた。



