小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

ヒトサシユビの森

INDEX|59ページ/86ページ|

次のページ前のページ
 


”通行禁止”
”害獣注意”
吊り橋の袂に看板が二本立っている。
小暮沢と天狗岳を隔てる谷にかかる古い吊り橋。
橋の入口に、いぶきは立っていた。
橋の入口には黒と黄色に色分けされたロープが張ってある。
いぶきは、風船を持つ手を持ち替えながら、ロープをくぐった。
錆びたワイヤーの吊り橋が、淡い月明りにぼんやり浮かぶ。
宙に浮かんだような敷板が、向こう岸の暗闇に続いている。
橋を吊っているワイヤーは、橋の途中までしか見えない。
橋の下は奈落の底のように暗い。
いぶきは、ためらわず足を最初の敷板に載せた。
ギシっと音を立てて、吊り橋が軋む。
等間隔で並んでいたであろう敷板は時とともに劣化し、ところどころ幅の広い隙間があった。
いぶきは、跳ねるように敷板を踏んで、構わず歩を進めた。
吊り橋がたわむ。
敷板の朽ちた欠片が、ぽろぽろと谷底へ落ちていく。
不規則に揺れる吊り橋の上で、いぶきはバランスを崩しそうになった。
「おっとっと」
ひょいと片足をあげてバランスを保ついぶき。
かと思うと、いぶきはそのまま突進するように駆けて、橋の向こう側まで渡りきった。
手に持った風船はまだ健在だった。
息をつく暇もなく、いぶきは小高い丘の上まで続く傾斜地に挑んだ。
太い枝と割れた岩が、組み合わさって階段状になっている斜面だ。
登山歴のある大人なら訳もない登坂道だが、いぶきにとっては低い壁の連続である。
段差を登るのに、いぶきは時々両手を使わなければならなかった。
丘のてっぺんまであと少しというところで、いぶきは不覚にも風船を手から離してしまった。
風船はふわっと浮いて上昇していった。
あっ、と呟いたいぶきは、風船の行方を追った。
風船は風に流されて、背の高いブナの木に寄りすがった。
枝の間をすり抜けて夜空に解き放たれると思われたが、そうはいかなかった。
歪な形に張りだした枝に頭を押さえられ、揺れる紐が小枝に巻きついた。
いぶきは丘を登りきって、ブナの木の下に辿りついた。
風船を見あげる。
風船がブナの枝葉に絡み取られていた。
ブナの幹を揺らするが、びくともしない。
木をよじ登って取るには、あまりに風船の位置が高すぎた。
そもそも太い幹の根本は、足をかけるとっかかりもない。
落胆して風船を見あげていると、いぶきはすぐ近くに何かがいる気配を感じた。
ざざっと枯葉を踏む音のほうを見ると、それはいた。
牡鹿だ。
牡鹿はブナの木を見あげていた。
それから、ゆっくりと首をうなだれた。
いぶきが後ずさりすると、牡鹿はいぶきを見ながら、態勢を立て直した。
牡鹿の涼やかな瞳と、いぶきの目が合った。
牡鹿はそろりといぶきから離れた。

作品名:ヒトサシユビの森 作家名:椿じゅん