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ヒトサシユビの森

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「大丈夫? かざねさん」
江守はかざねを心配して、隣に座った。
かざねは我に帰った。
「はい、大丈夫です」
溢れそうになる涙を堪えた。
いぶきは元気に廊下を駆けまわっていた。
ナースステーションを出た看護師が、点滴の袋を手に雪乃の病室に向かった。
いぶきはその看護師にまとわりついた。
看護師がドアを開けた隙をついて、いぶきが雪乃の病室に滑りこんだ。
「あっ、坊や!」
看護師が叫んだ。
病室のほうから聞こえる声に反応して、かざねが立ちあがった。
江守とともに雪乃の病室に走った。
「いぶき!」
かざねは走りながら、いぶきの名を呼んだ。
雪乃の病室のドアが少し開いていた。
ドアの隙間から中の様子を、かざねは窺った。
チューブに繋がれた雪乃がベッドに横たわっていた。
皺が目立つ年老いた顔。
肌つやのない細い腕。
あんなに元気だった母がいつの間に。
かざねはすっかり老人の姿になった雪乃に、時の流れの非情さを感じずにはいられなかった。
「坊や、入っちゃだめ」
病室の中から看護師の声。
かざねはドアを開け、いぶきを捜すために入室した。
いぶきは雪乃のベッドの柵を両手で掴んでいた。
ふと、さちやの名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
「さちや」
力のない女性の声だった。
雪乃の目がゆっくりと開いた。
かざねの顔の輪郭が目に入って、雪乃の口元が緩んだ。
何か言いたげだが、言葉にならない。
かざねがベッドの雪乃を覗きこむ。
「母さん、あたしがわかる?」
雪乃は喉の奥から声を絞りだした。
「かざね・・・」
かざねの目に涙が溢れた。
看護師は驚きを押さえつつ、ナースコールで詰所に連絡した。
「310溝端さん。意識が戻られました」
雪乃はか細い声で続けた。
「さちやも一緒かい?」
「えっ?」
「さちや、さちや。顔を見せておくれ」
「母さん・・・」
かざねはいぶきを抱きあげた。
「いぶき、この人はあたしのお母さん。あなたのおばあちゃんよ」
病床の雪乃からいぶきがよく見えるよう、いぶきを雪乃に近づけた。
雪乃の目が笑った。
「母さん、この子は、いぶき、って言うの」
かざねは、腕の中のこどもがさちやではなく、いぶきという新たに生まれた子だと雪乃に説明した。
「ほら、いぶき、おばあちゃんに挨拶なさい」
いぶきは照れくさそうに
「おばあちゃん?」
と小声で言った。
雪乃は喜びの笑みを浮かべた。
「さちや」
雪乃には伝わらない。
「だから、この子はさちやじゃなくて・・・」
「さちや、こっちへおいで・・・」
目も霞んで見えていないのだろう、とかざねは誤解を解くことを諦めた。
もし雪乃がさちやと再会したことを嬉しく思っているなら、それでいいと思った。
さちやがいなくなって、あたしが石束を去って、雪乃はひとりでどんな暮らしをしていたのだろう。
穏やかな笑みを浮かべながら、雪乃は眠るように目を閉じた。
急変するデジタル計器の数字を見て、看護師はかざねたちに言った。
「先生をお呼びしますので、いったん出てもらえますか」
短い面会を果たしたかざねは、いぶきを連れて病室を出た。
元気を持て余したいぶきは、かざねの腕から逃れ、長い廊下を走り回った。
かざねは、長椅子に腰を落ちつけた。
いぶきを追いかける気力が湧いてこなかった。
江守もいぶきの活発さに呆れているようだった。
エレベーターの扉が開いた。
かざねは無意識に、エレベーターから降りる白衣の男性医師を見やった。
副院長の茂木慎平である。
かざねは、茂木のことを知らない。
白衣を着た小太りの医者という認識でしかない。
だが、茂木はかざねのことをよく知っていた。
かざねを石束から追いだすために仲間とともに、かざねの家族や住まい、勤め先や日常を徹底的に調べあげた。
かざねの評判を貶めるような情報をSNSのインフルエンサーに流したり、ゴシップ雑誌の記者に提供したりした。
それも6年も前の話。
6年という空白期間は、様々な記憶を過去に押し流した。
茂木は通りすがりにかざねを一瞥したが、かざねだとは気がつかなかった。
そのまま、ナースステーションに向かった。
「部屋は?」
「210号室です」
「210号・・・」
「お名前は、溝端雪乃さん。いま娘さんが見えられています」
「溝端雪乃の娘さん?」
茂木は廊下を振り返った。
ソファベンチに掛けるかざねと目が合った。
瞬間、6年前の記憶が朧気に蘇った。
すると茂木の太腿あたりに、勢いよくぶつかるものがあった。
茂木は身をよじらせて見おろした。
小さな男の子・いぶきだった。
いぶきは茂木を見あげて、いたずらな笑みを見せた。
茂木の頭のなかに浮かんだのは、溝端かざねとさちやの関係図だ。
茂木には、その子がさちやに見えた。
さちやはもうこの世にいないはず。
だとしたら、この子は・・・。
茂木はかざねの視線を感じつつ、白衣の裾にまとわりつく子どもに戦慄した。

  ×  ×  ×  ×  ×  ×  ×

作品名:ヒトサシユビの森 作家名:椿じゅん