ヒトサシユビの森
水を張った稲作の区画に囲まれるように、その建物はあった。
石束総合病院。
雪乃が運ばれたと、電話で室町から聞いた病院だ。
かざねが6年前にこの地を離れたときには、まだそのような病院はなかった。
JR石束駅周辺の開発事業の一環として、新設されたばかりだ。
広い駐車場と立派なエントランスを備えた5階建ての建築物が、田園風景の中で異彩を放つ。
建物の塔屋には病院名を示す大きな看板が掲げられていた。
高い建物がほとんどない石束駅周辺にあって、その目立つ看板は遠目からでも判読できた。
駅近くまでジープを走らせたかざねは、その看板に引き寄せられるが如く病院に辿りついた。
診察時間が始まる前だった。
気の早い老人たちが、玄関脇のベンチに座って自動ドアが稼働するのを待っていた。
玄関付近に駐停車するスペースがないことを確かめたかざねは、病院の専用駐車場にジープを取り回した。
専用駐車場の片隅に、パトカーが一台停まっていた。
パトカーの前に立つ、ひとりの警察官がいた。
かざねのジープが駐車場に入ってくるのをじっと見守っていたのは、江守巡査長だった。
ジープを停めて車から降りたかざねは、江守に会釈した。
「お久しぶりです」
「元気そうで何より。とにかくこちらへ」
駐車場から直接病院に繋がる通用口へ案内しようとする江守を、かざねが制した。
「ちょっと待ってください。いぶき、降りなさい」
見るものすべてが物珍しいらしく、いぶきは周囲を見ながら車から降りた。
いぶきを見て、江守の口が「あっ」と開いた。
いぶきの風貌が、写真で見るさちやに重なった。
「いぶきといいます。いぶき、このお姉さんにご挨拶しなさい」
いぶきはきょとんとしたまま、江守を見つめた。
病院の廊下を歩きながら、江守はかざねに雪乃が搬送されるまでの経緯を話した。
「路肩に乗りあげて停まっている車があると通報があって。その車種がパジェロと聞いてピンときたんです」
江守はエレベーターのボタンを押した。
「また雪乃さんが飲酒運転したんじゃないかと。とにかく現場へ急行しました」
扉が開いたエレベータ―に、かざねはいぶきの手を引いて乗った。
「やはり雪乃さんでした。街路樹にぶつかって停まっていました。車の中で雪乃さん、ぐったりしてた」
エレベーターが2階についた。
「呼びかけても返事がないの。それで救急車を呼びました」
2階の廊下の先にナースステーションが見えたところで、江守は立ち止まって話しを続けた。
「で、診断の結果は飲酒ではなく脳内出血。手術の必要があるということで、室町さんに連絡してもらいました」
手術を行うに際して、家族の同意が要るという室町からの電話だった。
それを聞いて、かざねは即答していた。
江守はナースステーションの奥で申し送りをしている看護師に声をかけた。
ふと気づくと、なぜかいぶきが江守の隣にいた。
背の高いカウンターの中を覗こうとしている。
江守は看護師に雪乃の容態を尋ねた。
応急の手術は成功し、最悪の状態は脱したと看護師は話した。
ナースステーションに近い病室で、今は経過観察をしているという。
ただ、意識が戻るかどうかはわからないということだった。
江守は看護師から聞いた話をかざねに伝えた。
「母に会えますか」
「まだ、だめみたい」
家族であってもまだ病室に立ち入ることはできないらしい。
かざねは廊下に置かれたソファベンチに腰をおろした。
昨夜から一睡もせずと長い時間、車を運転してきた。
石束の戻る道中で思うことは、母雪乃のことばかり。
二度と会えないのかと考えると、胸がつぶれそうだった。
病院に着いて、雪乃が命を取り留めたことを知って、かざねは少しほっとした。
壁に寄りかかり、目を閉じると、昔のことが思いだされた。
× × × × × × ×
灯りを消した自室で、かざねはベッドにもたれ、膝を抱えていた。
なんとか高卒資格だけはと、気持ちを奮い立たせて通学した高校へも行かなくなった。
お腹の中に胎児の兆候があると知った頃だった。
まだ堕胎することが可能な時期でもあった。
体内に命を宿したことの意味に、かざねは戸惑っていた。
かざねの部屋のドアを、雪乃がノックした。
「入ってこないで」
かざねは激しく拒絶した。
雪乃は温かい食事が載ったトレイをドアの前に置いた。
雪乃はドア越しに、かざねに語りかけた。
「私がお前を身ごもったとき、父親が誰だかわからなかった。貧しくて、ひどい暮らしだった」
雪乃は続けた。
「だけど、かざね。私は、お前を産んで、良かったと思ってる」
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