ヒトサシユビの森
つつがなく、旅館で働く日々が続いた。
コツを掴んで集中的に仕事をこなす。
空いた時間を見つけては、いぶきの育児にあてる。
授乳やオムツ替え、長じて昼寝や離乳食など、かざねの手の回らないときは仲居仲間が手伝った。
旅館はまるで、いぶきを中心に回っているようだった。
4年の歳月が流れた。
成長したいぶきは、様々な事柄に興味を示すようになった。
ある時期は寮の裏手に広がる雑木林へひとりで出かけて、カブトムシやセミを観察するのが習慣になった。
それらを旅館に持ち帰ろうとしたが、千勢が嫌がった。
それでもいぶきは、旅館の廊下で昆虫と戯れた。
ついに怒りの頂点に達した千勢は、いぶきに昆虫の持ち込みと雑木林への立ち入を禁止した。
趣味を取りあげられたいぶきは、日がな一日旅館の窓から雑木林を眺めた。
いぶきの興味を昆虫から逸らすため、仲居たちは頭をひねった。
手始めに、塗り絵や積み木をいぶきに勧めた。
初めは喜々として遊んでいたが、じきに飽きたようである。
いぶきが興味を示すものを仲居たちが探していたとき、いぶきは畳に座ってあるものをじっと見ていた。
テレビだった。
偶々、テレビでウルトラマンの再放送をやっていた。
ウルトラマンが前腕を交差させると、そこから光線が発射された。
暴れ狂う怪獣が、光線を受けて倒れる。
いぶきはそのシーンに大喜びした。
自らもウルトラマンの必殺技を真似て、腕を交差する。
そして仲居たちの向けて、光線を撃つ。
仲居のひとりが光線を受けた振りをして倒れると、いぶきのテンションはさらにあがった。
「50年前のテレビなのに、子どもを惹きつける何かがあるんだね」
仲居が、かざねに言った。
「え、何ですか」
かざねが問い返した。
「ウルトラマンよ」
「ウルトラマン、ですか・・・」
「テレビでやってたの、いぶきちゃんがハマっちゃって」
ウルトラマンと聞いて、かざねはさちやを思い出さずにはいられなかった。
さちやは熱心にウルトラマンのDVDを観ていた。
もしかして興味を持つ共通因子が、いぶきにもあるのか。
テレビで放映していた番組が、偶然いぶきの興味に合致しただけなのか。
いずれにせよ仲居たちにとっては、いぶきがテレビにかじりついている間は、手がかからなくて済んだ。
しかしテレビを見終わった後が厄介だった。
いぶきの熱が冷めないのである。
クレヨンでウルトラマンの絵を描き始める。
スケッチブックでは飽き足らず、チラシの裏、新聞紙、さらには部屋の壁に戦闘シーンが展開された。
畳や襖がウルトラマンに汚染される前に、仲居は手を打った。
ウルトラマンのおもちゃを買い与えたのだ。
腰に手をあて直立するウルトラマンのフィギュア。
いぶきはクレヨンを捨て、フィギュアで遊ぶようになった。
空想の世界でウルトラマンを操るいぶき。
だが、何か物足りない。
対戦相手がいなかった。
仲居たちは敵キャラのフィギュアを、大型ショッピングモールまで出かけて探したが、見つからなかった。
それを見つけたのは、千勢であった。
それは、旅館の倉庫の古い行李のなかに紛れていた。
バルタン星人。
宇宙忍者と異名をとるウルトラマンの好敵手。
直立ウルトラマンはついにバルタン星人という対戦相手を得た。
バルタン星人は光線を浴びたぐらいでは倒れない。
ますますいぶきのひとり遊びに拍車がかかった。
いぶきのウルトラマンへの執着は長らく続いた。
その夜も、風呂から上がるなり、いぶきはテレビの前を陣取った。
遅れて風呂場から戻ったかざねは、鏡台の前で髪を乾かした。
ドライヤーの音に紛れて、電話のベルが聞こえてきた。
「いぶき、テレビの音をさげて」
テレビの音か、実際の電話の呼出音かどうか確かめたかった。
が、テレビに釘付けのいぶきに、かざねの声は届かない。
かざねはバスタオルを片手にリモコンを探し回り、音量をさげた。
洋服ダンスの上で、スタンドに立てかけたスマートフォンが鳴っていた。
画面をタップすると、室町の名前が発信者として表示された。
室町には数年前に、ショートメールでこのスマホの番号を伝えていた。
何もなければ、連絡は来ない。
何かあったのだ。
かざねの胸にざわつくものが湧きあがった。
「はい、溝端です」
恐る恐る電話に出た。
「かざねさん? 室町です。実は・・・」
母・雪乃が緊急入院したという内容だった。
雪乃の病状が命に係わると担当医から聞いて、室町はかざねに連絡した。
かざねは濡れた髪もそのままに、外出着に着替えながら荷物をまとめた。
「いぶき、今から出かけるから」
そう言って、かざねはいぶきのリュックに当面必要なものを詰めた。
東京方面の終電は終わっている時刻だった。
タクシーで移動するしかないと、かざねは旅館のフロントからタクシー会社に電話した。
繋がらない。
繋がっても配車できるタクシーはないとあしらわれた。
かざねが途方に暮れていると、気配を察知して千勢が現れた。
かざねは千勢に手短に事情を説明した。
千勢は
「車で行くかい?」
と提案した。
「えっ?」
「使っていいよ、うちのジープ」
悪路や雪道に強い四輪駆動車ジープ・ラングラーである。
「でも、あれは食材の買い出しに・・・」
「そいつは何とかする」
かざねが迷っていると、千勢が車のキーを差しだした。
「早く行ってあげな」



