ヒトサシユビの森
築年数を経た和風建築。
老舗旅館といえば聞こえは良いが、時代に取り残された古いタイプの宿泊施設だった。
5月の連休と秋の行楽シーズン以外で、客室が埋まることはなかった。
さびれた温泉街は、昭和のまま、時間が止まっているようだった。
ただ女将の作る山菜料理を求めて訪ねてくる常連客が、毎年少なからずいた。
旅館の裏手には、こじんまりとした建物があった。
県外から住込みで働きにくる従業員のための住居だった。
千勢に案内されて、かざねはいわゆる従業員寮で荷物を解いた。
現状はかざねが唯一の入居者だと、千勢が言った。
いぶきが夜泣きしても、迷惑がかからないことに、かざねは安堵した。
翌日、仲居と呼ばれる旅館の従業員の数人と顔合わせした。
皆、近傍に住む高齢女性たちであった。
彼女たちは、いぶきを見るなり、抱かせてと迫ってきた。
「まあ、かわいい」
「男の子?」
「名前は何て言うの?」
食いつかんばかりに顔を近づけて、いぶきを奪い合った。
千勢が仲居たちに言った。
「こちらのかざねさんに仕事頑張ってもらうから、あんたらは休憩がてら、赤ん坊を見てやっておくれ」
仲居たちは新参者のかざねより、いぶきに夢中であった。
古参の仲居の後について、仕事の段取りを覚える。
それが初日の仕事だ。
名前を覚え、場所を覚え、やり方を覚え、ルールを覚える。
掃除、配膳、客応対。
ひとつひとつに細かい決まり事があった。
一度では覚えきれず、かざねは場所を間違えたり教えられた順序を何度も間違えた。
だが、仲居たちは寛容だった。
仲居仲間に上下関係はないと、彼女たちは笑った。
ただ、千勢は違った。
女将として旅館を切り盛りする上で、必要な小言は言った。
その小言もかざねが来て2週間が経つ頃には、ほぼ聞かれなくなった。
宿泊客に対して、初めはぎこちない作り笑顔だったが、やがて自然と笑顔が作れるようになった。
旅館の仕事は、朝早くから夜遅くまで切れ目がなかった。
しかしシングルマザーのかざねの勤務は、日の暮れまでとされた。
宿泊客の夕食の準備を終えた後に、かざねは仕事着を脱ぎ、いぶきを連れて従業員寮に帰った。
寮に戻ったかざねが一番にすることは、湯ぶねに湯を溜めること。
足を伸ばせる大きな浴槽のある共同風呂だが、今のところ利用するのはかざねだけである。
湯気の立つ温かい湯ぶねに、冷えきった足を浸す。
湯の温度を確かめて、いぶきと一緒につかる。
かざねにとって、至福の時間だった。



