ヒトサシユビの森
ママの計らいで、かざねは石川県の温泉旅館に身を寄せることになった。
生後3か月の赤子を抱いて、かざねは旅館の門を叩いた。
ぼたん雪の舞う夜だった。
廊下の奥から現れたのは、旅館の女将・千勢。
千勢は傘寿を過ぎたばかりの高齢老人だが、腰が曲がることもなく矍鑠としていた。
値踏みするような眼を光らせて、かざねに尋ねた。
「かざねさんだね」
「はい、溝端かざねです」
「三鷹のママから、だいたいの話は聞いてる」
「すいません」
頼る者もいない見知らぬ土地で、かざねは子どもを産んだ。
早産で低体重児だった。
将来発育に問題が生じる可能性を示唆された。
長くは入院できなかった。
あまりに幼い乳?児を抱えて他人の世話になることが憚られて、退院後かざねは安いホテルや宿を転々とした。
どこに行っても、怪しまれ疎まれた。
露骨に宿泊を断られることもあった。
乳?児を連れて野宿するわけにいかない。
宿泊客の立場であるにも関わらず、かざねは宿の主人に頭を下げざるを得なかった。
数か月の間、苦い経験したことによって、かざねは知らぬ間に「すいません」と言う癖がついた。
「謝る必要はないよ」
「えっ?」
「だから、軽々しく、すいませんって、言うんじゃない」
「あ、すいません」
千勢は苦笑した。
「ここには世話好きな年寄りが大勢いるから、子守には事欠かない。その分、あんたにはしっかり働いてもらうよ」
「ありがとうございます」
かざねは礼を言って、手荷物を足元に置いた。
かざねの腕の中で、綿入れにくるんだ赤子がぐずった。
「なんて名前だい? その赤ん坊」
「この子ですか。この子の名前は・・・」
かざねは赤子をあやすように抱えなおした。
「いぶき、です」



