ヒトサシユビの森
輪郭を描くだけで、半日が費やされた。
納得いく線が描けずに、1日目が終わった。
水上は悩んでいた。
何かと戦っていた。
着替え終わってかざねが部屋を去るときも、水上はキャンバスに向かい模索を続けていた。
翌日、水上の部屋を訪れると、水上が不在であった。
しばらくして水上が帰ってきた。
画財屋で新しい筆を買ってきたらしい。
先の細い筆を二本、水上はかざねに見せた。
「日本画を描くときの筆。きっとこれなら」
水上の思惑は的中した。
輪郭を整え、色を重ねていく。
昼の休憩を挟んで、仕上げにかかる。
最後に細い筆を繊細に動かして、水上はふっと溜息をついた。
「終わりました」
気を張ってポージングしていたかざねも、肩の力を抜いた。
水上は簡単に道具を片づけた。
綿紙素材の布をキャンバスに被せると、リビングに移動しソファにへたりこんだ。
長襦袢から洋服に着替え終えたかざねは、キャンバスの布をつまみあげ、絵を覗き見た。
息を呑むほど美しい絵だった。
繊細に描かれた長いまつ毛、襟足に伸びる後れ毛の筆致。
紅を引いた唇。襦袢に透ける白い肌。すべての筆遣い、色遣いが美しさに貫かれていた。
折り畳んだ襦袢を持って、かざねはリビングに出た。
ソファで目を閉じて微睡んでいるような水上の横に襦袢を置いた。
「水上さん」
と呼びかけても返事がなかった。
かざねは水上の隣に腰をおろした。
そして水上の腕に肩を寄せた。
水上の絵を目にして、かざねは自分が水上の傍にいてはいけない人間だと悟った。
芸術のことはよくわからないが、水上が将来有望な若者であることは確かだった。
それに比べて自分の人生は負債だらけだ。
意図せずにシングルマザーとなり、その子すら失ってしまった。
無実の罪をかけられ、取り調べの日々が続いた。
誹謗中傷の嵐に耐えきれず、最後には町を追われた。
水上がこのことを知ったら、きっと幻滅するだろう。
それでいい。
「まりやさん」
不意に水上が呟くように言った。
ん? と鼻音で返事する。
「きょうは、ありがとう」
水上は笑みを浮かべた。
「水上さん。あたしね、本当の名前は・・・」
かざねは背筋を伸ばして、水上に言った。
「まりやさん」
水上の声がかざねの言葉を遮った。
「僕にとって、あなたは、まりやさんです」
「水上さん、聞いて。お願い・・・」
「まりやさん」
水上が再びかざねを遮る。
「もう少し、僕の傍にいてくれませんか」
頭ではわかっていた。
好きであればあるほど、水上から離れなければいけないことを。
でも、できなかった。
水上の少年のような無垢な魂に触れたとき、かざねの理性は脆くも崩れた。
ソファの肘掛から、襦袢が床に落ちて乱れた。
かざねは、水上と一夜の恋に落ちた。



