ヒトサシユビの森
キャリーバッグを抱えて、かざねは東京駅に降り立った。
23区内での住まい探しを早々に諦めたかざねは不動産屋を介して、井の頭公園近くの安アパートに身を寄せた。
四畳半とキッチン。
シャワールームを兼ねたトイレ。
バルコニーはなく、窓の手すりに洗濯物を干す光景が見られた。
産まれ育った石束の洋館とは較べるまでもなく、貧相で手狭な間取りであった。
アパートの住人は、貧乏学生、外国人労働者、生活保護風の中年男性たちである。
顔を合わせても、挨拶する者はいない。
却ってそれが、かざねには好都合だった。
他人と会話をするのが怖かったし、話をするにしても最小限にしたかった。
気持ちが落ち着き、アパートの独り暮らしに慣れてきたかざねは、職探しを始めた。
コンビニのラックを漁って、求人系のフリーペーパーを攫った。
井の頭公園のベンチに座り、求人情報に目を通す。
スーパーのレジに応募して、かざねは面接までこぎつけた。
だが面接の日の朝に、先方から断りの電話がかかってきた。
理由は濁されたが、「溝端かざね」という名前が問題視されたらしい。
別の応募では面接の場で、面接官が履歴書を見て眉をひそめるということもあった。
たとえ仕事を得られたとしても、職場で白い目を向けられるに違いない。
そんなことを考え始めると、仕事探しに後ろ向きになった。
それでも何か収入を得る手段を探さないと、生きていけない。
鬱々とした気分で井の頭公園を歩いていると、池のほとりに腰かけるひとりの画家が目に入った。
キャンバスに描かれる風景画は、繊細な筆遣いで色彩豊か。
絵画に明るいわけではないが、かざねはその絵に心惹かれるものを感じた。
かざねがキャンバスの絵を見ていると、かざねに気づいて画家が振り返った。
涼しい目元をした大学生風の青年だった。
そういえば、この近所に美術大学があった。
美大生だろうか。
振り返った青年は、微笑みながら軽くかざねに会釈をした。
かざねも無意識に笑みを返していた。
それが、かざねと美大生・水上修司との出会いであった。
かざねが就いた仕事。
それはいわゆる”水商売”だった。
郊外の駅前のネオン街にあるラウンジ。
人生経験を経た店の経営者(ママ)に拾われた。
ママはかざねの過去を詮索しなかった。
可愛さを演出できないかざねの不器用さに、ママは若かりし頃の己の過去を重ねた。
ドレスに身を包んだかざねは、エキゾチックな顔立ちと相まって見栄えがした。
経験を積めば、そこそこ良い客がつく。
ママはそう見立てた。
ママはかざねに本名ではなく、源氏名をつけた。
まりや。
それが、かざねに与えられたラウンジでの源氏名だった。
かざねがそのラウンジで働き始めて十日ほど経ったある夜、店に意外な客がやってきた。
水上だった。
年配の男性を伴っていた。
正しくは、年配の男性が水上を連れてきたのである。
年配の男性は、ママと顔見知りだった。
ママはふたりを見て、かざねに耳打ちした。
「美大の駿河先生。お気に入りの学生さんが見つかると連れていらっしゃるの」
かざねは水上を見るなり、顔を隠した。
かざねに気づいた水上は、あっと口を開けたまま、かざねを見つめた。
ふたりの奇妙な振る舞いを見て、ママは
「もしかして、お知り合い?」
「水上くん、君も隅に置けん奴だな」
駿河は豪快に笑った。



