ヒトサシユビの森
「ちっ、親が親なら、子も子だ」
取り調べ3日目もまた非情な言葉の暴力が、容赦なくかざねに浴びせかけられた。
かざねはこの日も沈黙を貫いた。
”さちやは生きている、さちやは私が守る”と心の中で何度も何度も唱えた。
それがかろうじて正気を保つ唯一の手段だった。
そしてその日の午後、突如として取り調べは終了した。
佐治は不満げな表情で、かざねの手錠を外した。
「溝端かざね。釈放だ」
かざねは唖然とした。
同時に、安堵の感情が全身を支配した。
佐治は、かざねに椅子から立つように促した。
「言っとくが起訴猶予だ。容疑が完全に晴れたわけじゃないからな」
担当官に伴われて、かざねは取調室を後にした。
廊下でかざねは、担当官に尋ねた。
「刑事さん、さちやは。さちやは見つかったんですか」
かざねの勾留期間中に、結局警察はさちやを発見することができなかった。
近接自治体の協力を得て、捜索はさらに下流域の水中や河岸に拡げられた。
だが、一週間を過ぎても手がかりを得られず、捜索は止むなく打ち切られた。
佐治がかざねに、起訴猶予だと言ったことは正確ではなかった。
正しくは、不起訴だ。
起訴猶予が起訴するかどうかを保留するのに対して、不起訴は起訴を断念することである。
検察が不起訴に動いた大きな理由は、当夜の目撃者が証言を変えたことが大きい。
目撃者を室町が訪ねたところ、その目撃者は眼鏡を掛けた高齢の老人であった。
高齢老人は当初、月明りがあったので人影を視認することができたと証言していた。
しかし当夜は月の入りは午前3時で、4時には夜空に月は見えないはずと室町が言うと、老人は首を傾げた。
確かに見た。
けれどもしかして、見間違いだったかも知れない、と証言が揺らいだ。
現場で実施した再現試験で、若い江守が橋の上に掲げた人形を判別できなかった。
眼鏡を必要とする老人に、果たして欄干に立つ人影が見えただろうか。
室町から連絡を受け、佐治はあらためて老人を問い詰めた。
だが、老人は曖昧な返事に終始した。
殺人を裏付ける大きな証拠だった目撃証言に疑義が生じた。
公判維持にリスクがあると判断した検察は、かざねを殺人と死体遺棄両方の容疑で立件することを諦め、不起訴とした。
かざねを不起訴にした理由を、警察検察とも公表しなかった。



