Scraper
朝七時、ヒマリはいつの間にかベッドの外へ出ていて、眠っていた跡がまだ卵型にへこんでいる。おれはいつの間にか寝落ちしていたことに気づいて、体を起こした。窓からは、路地を二本挟んだ駐車場に停めたプリメーラが見える。おれが起きたことに気づいたヒマリが言った。
「おはよ。すぐご飯入る?」
「おはよう。入るよ、サンキュー」
おれはそう言うと、洗面所で顔を洗った。歯を磨きながら揺れる顔を見て、考えた。昨晩起きたことについては、ヒマリには何も言えない。冷却期間は大抵一週間で、お互いに好きなことをする。おれの場合はルーさんに頼んで仕事に入れてもらうことが多かったし、今回もそうだったが。ヒマリは例のスリの友達と一緒に、一泊旅行に行くと言っていた。スリ友と言うと、ちゃんと名前があると言ってヒマリは怒る。おれとしてはずっと、そういう友人とは縁を切って欲しいと思っていた。そんな感じで、ヒマリ自身は真面目な性格だし、消せない落書きが右肘に入っているのが不思議なぐらいだ。おれが昨晩帰ってきてからは、嬉しいことが立て続けに起きたみたいに明るかった。土産に買ってきたワッフルをひとりで半分以上食べて、ポコ太郎も連れて焼肉に行きたいと言っていた。今はお気に入りのエプロンを巻いてフライパンを振っている。おれたちが同居する、ローレルコートの四〇五号室。両隣は独り暮らしで、片方はよく友達を連れてくる。新しい建物ではないからあちこちボロくて、管理も行き届いていない。四〇一号室の前には苔の生えた三輪車が置かれていて、エントランスの蛍光灯は長らく片方が切れたままだし、併設の駐車場すらない。
ヒマリは常にこの部屋の中を動き回っていて、テレビを見て笑ったり、ネットのホラー動画を見て怖がったり、フリマで買ってきた大きなヘッドホンで音楽を聞いたり、それなりに響く声で歌ったりしていた。結局、ここにさえ手が及ばなければいい。おれはそう思っていた。
「ほうれ、できたわ」
ヒマリはそう言ってエプロンを脱ぐと、フックに向かって投げた。一発でかかったのを見ておれが小さく拍手をすると、右手にお箸をひと組持ったヒマリはダイニングの椅子を引いて座った。
「食べよ」
スクランブルエッグとハム、ヒマリの実家仕様のキュウリの和え物、総菜のパスタと明太子、ごぼうのサラダ。ダイニングには、おれたちがコップを置く場所するないみたいに、料理が並んでいた。
「すごいな、めっちゃある」
「元気ないもん。カズくん、めっちゃ顔に出るからな」
「疲れがつま先に出る奴よりは、分かりやすくていいやろ」
おれはそう言うと、『まあね』と言いながら笑うヒマリと向かい合わせに座った。ヒマリは寝癖が東を示す矢印のようになっていて、ちょうど上がり切った朝日が三角に折れ曲がった光でテーブルを照らしていた。
「いただきます」
おれがそう言ってお箸を手に取ると、ヒマリは口角を上げて言った。
「誰? ポコ? ルー? トカさん? それとも、あ、た、し?」
「揉めてる相手か? なんでヒマリが入ってんねん」
「いや、聞いてみただけ」
ヒマリはスクランブルエッグにケチャップをかけながら笑った。おれはキュウリの和え物を食べながら、首を横に振った。
「仕事関係や。でも、ポコ太郎は関係ない」
「ほな、ボス二人やん」
「もう解決したから、心配すんな」
おれが言うと、ヒマリは笑顔に切り替えてオレンジジュースをひと口飲むと、すぐに顔をしかめた。
「うはー、酸っぱい。ハチミツ入れよ」
そう言って立ち上がったヒマリは、切り替えが早い。ストーカーを追い払うまでは『一緒に死のう』と一日に百回ぐらいメールが来て悩んでいたのが、おれとポコ太郎が強めに脅して追い払った直後に『お祝いしません?』と言って、おれたちがストーカーを押し付ける壁代わりにした目の前の居酒屋を指差したぐらいだった。三人で乾杯し、下の名前を聞かれてカズトモだと言ったら、ヒマリは目を丸くして『名前の中にズッ友があるやん』と言い、感激していた。おれの親はそんな意味で名付けたわけじゃないと思うが、ヒマリはそういう言葉遊びが好きで、何にでもあだ名をつけた。
相変わらず食欲は湧かなかったが、ポコ太郎の前で見栄を張る練習をした甲斐があって、ヒマリの前でいつもの『カズくん』でいられるぐらいには、胃が底力を見せているようだった。おれはハムをかじりながら、棚から取ったハチミツのボトルを振っているヒマリに言った。
「甘くなったか?」
「まだ入ってないし。糊みたいになっとる」
この朝飯だったり、ヒマリの背中だったり。もう見ることはないと思うと、時間をどうにか捻じ曲げて、半分ぐらいの速度まで落としたい。おれは、駐車場に停まっているダークグレーのプリメーラに目を向けた。路地を二本挟んだ向こうで、最新型の車に混ざって静かに並んでいる。ハチミツのボトルが空気を吸い込む息継ぎのような音を鳴らし、足音が近づいてきて背後に回ると、細い両手が後ろから伸びてきておれの目を覆った。そして、ヒマリの声が耳元に届いた。
「ネタバレになるから、そっちは見ないの」
- 一日前 -
昨日まで泊めてくれたポコ太郎には『しばらく、街を出ろ』と伝えた。おれに合わせて、後戻りできないぬかるみに足を押し込む必要はない。実際おれは、膝ぐらいまで浸かって充分時間を使って、考えた。一週間前に拳銃を渡されて、そのまま金を預けに行ったのは正直急ぎ過ぎた。ルーさんからすれば、そのタイミング自体を一週間待つという意味だったのかも知れないが、おれはあのとき、どうしてもすぐにトカさんのところへ行かなければと思ったし、実際その通りにした。
そのときのトカさんの言葉は、今後おれの頭の中から消えることはないだろう。おれに背を向けたまま、トカさんは『弾は入ってんのか?』と訊いた。おれがポケットに拳銃を仕舞うのと同時に、体ごと振り返った。
『撃つんやったら、ど真ん中を狙え。あと、銃は現場に残せ』
その言葉には、ただ相手の身を案じるような真剣さがあった。こんな風に言葉をかけてもらったことは、今までなかった。しかもその言葉は、今から自分が殺そうとしている相手が発している。おれは何か相槌を打ったのだと思うが、もうその内容は覚えていない。
『煙が出とる証拠品と歩いとったら、その場で有罪確定や』
おれは『何の話ですか?』と言った。それで話を遮れるかと思ったが、トカさんはブルドッグのような顔を向けたまま動かなかった。
『お前、ここに来るんは今日で最後にせえよ』
突然のクビ宣言は、意外だった。おれが銃を抜いてその頭を撃てば、全てが暗転してトカさんが今までに経験した全ては床にぶちまけられるはずなのに。トカさんはおれの目をじっと見たまま、言った。
『特技があるんやから、それを生かせ。専門学校諦めて、こっちの道に来たんやろ』
何となく馬鹿にされている気がして、おれは首を横に振った。
『自分は逃げませんよ』
その決意表明は、トカさんからすればさらに輪をかけた冗談に聞こえたらしく、その口角が上がった。笑顔を作ったり、笑ったりすることができる顏だとは思っていなかったから、正直驚いた。



