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夢の連鎖の悪夢

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「元々の列強による植民地支配」
 あるいは、
「日本にすべてを押し付けて、今度は、社会主義への対抗という意味で、アジアを洗脳した」
 という、
「戦勝国のやり方」
 という考え方からすれば、
「戦勝国のやり方が間違っていない」
 というのであれば、
「大日本帝国のやり方」
 というものを非難できるわけはない。
 結局、
「日本に敵対感情を持っているアジア諸国の一部の人たち」
 というのは、結局、
「占領国による洗脳」
 というものに引っかかった人たちということになるのではないだろうか?
 日本という国も、戦後、
「民主主義の押し付け」
 ということで、次第に、
「大日本帝国というものに罪があった」
 ということを刷り込まれ、東アジア諸国からの避難を、
「理不尽だ」
 と思いながらも、
「逆らうことができない」
 と考えてしまっているのかも知れない。
 戦後には、
「安保闘争」
 などというものがあり、それが、
「日本の運命を決めた」
 といってもいいのだろうが、それが終われば、実際に、
「平和ボケの国」
 ということになってしまった。
 なんといっても、日本は、
「民主主義というものに生まれ変わった国」
 ということで、その民主主義の一番のメリットは、
「自由」
 ということであった。
「大日本帝国時代」
 には、最優先が、国家ということであったので、自由が制限されていた。
 だから、民主主義における、
「自由の尊重」
 というのは、実にありがたく、あっという間に日本人の中に刷り込まれたことであろう。
 ただ、
「自由」
 というものを優先すると、その反面、デメリットとして、
「差別問題」
 というものが出てくる。
 それは、
「自由というものによってもたらされたことだ」
 といってもいいだろう。
「自由」
 というのは、
「自由競争」
 のことであり、競争によって、必ず順位というものが付けられる。
 だからこそ、
「貧富の差」
 というものが生まれてくるわけで、ただ、この貧富の差というのは、実は、
「悪いことばかりではない」
 ともいえる。
 皆が皆同じだということになると、
「競争意識というものがなくなってくる」
 といってもいいだろう。
「競争意識があるということは、高みを目指したい」
 ということの現れであり、それが、全体的なレベルの底上げというものにつながっていくことになる。
 それが、
「社会の発展」
 であり、さらに、発展を目指そうとするから、目標というものが、個人でもできるといってもいいだろう。
 大日本帝国時代は、
「国家のために、皆が同じ目標に向かって努力する」
 ということになるので、決して、夢であったり、個人の目標というものがあるわけではないので、
「個性」
 というものが生かされないということになるのは、当たり前だといえるのではないだろうか?
 しかし、戦後の、
「押し付けられた」
 とはいえ、民主国家になったということで、
「自由競争」
 という考え方が生まれてきた。
 それによって、国家も企業の競争により、より優秀な人材や、発展というものができてきたといってもいいだろう。
 そもそも、日本という国は、昔から、
「奇抜な発想」
 であったり、
「天才」
 と呼ばれる人が結構いて、それが、
「国家反映」
 であったり、
「国防」
 というものに、多大な貢献をしたといえるだろう。
 江戸時代における、
「元禄文化」
 などの発展であったり、
「明治以降の国防」
 という意味で、
「日本人には知られていなかったことを、海外ではその研究が評価された」
 というものもあった。
「八木アンテナ」
 などというのも、その一つであり、なんといっても、国防に役立ったものでの有名なものとしては、特に日露戦争時の、
「伊集院信管」
 であったり、
「下瀬火薬」
 などは、その威力を最大限に発揮したということで、かの、
「日本海海戦に半日で勝利できた」
 という、
「陰の立役者」
 であった。
 さらには、
「出会った瞬間には、反転して逃げなさい」
 とまで言われた、
「日本の誇る艦上攻撃機である、ゼロ戦」
 などがあったではないか。
 日本なら、
「敵を見て逃げることは許されない」
 という考えとは違い、そもそも、
「戦闘に対しての考え方の違い」
 から、
「資源のない日本の兵器がいとも簡単に不足していった」
 ということで、あくまでも、精神論で戦う日本人に、
「合理性」
 というものが、いかに、
「道義」
 というものに結びつくか?
 ということが分かっていない証拠だといえるのではないだろうか。
 しかも、
「国家体制」
 ということで、
「連帯責任」
 であったりという考えが、結局は武士道がもとになっていることから、そもそもが、
「民主主義には合わない」
 ということだったのだろう。
 しかし、元々、
「勤勉で実直な性格」
 である日本人なのだから、
「上から押さえつける」
 というやり方ではなく、それよりも、
「自由な競争環境を与える」
 ということで、
「個々によるレベルの押し上げ」
 というものが、
「新しい技術の発展」
 と、
「社会経済の繁栄」
 というものを引き起こし、
「世界に対して通用する人材を育成する」
 ということになるのだ。
 それが、
「ここの目標につながってくる」
 ということであり、日本が、急激な、
「戦後復興」
 であったり、
「経済成長というものを成し遂げる」
 ということになったのだろう。
 その後、他の国も独立を果たし、経済成長していったが、そもそも、その土台を築いたのは、日本である。
 それを考えると、やはり、
「アジア諸国が、日本を恨むというのは、筋違いではないだろうか?」
 という考え方もあって、しかるべきといえるのではないだろうか?

                 教育方針

 また、日本という国が、
「戦後復興」
 という時代から、
「経済成長に掛けて」
 という時代において、それまでの、
「遅れた教育」
 ということで、
「旧来の、大日本帝国における教育」
 さらには、
「敗戦の混乱における教育」
 ということで、本来であれば、
「復興にしても、発展にしても、海外の技術を理解できるだけの、教育水準に追いつかなければいけない」
 ということで、
「教育問題に力を入れる」
 ということになった。
 これは、
「明治維新後における、国家体制」
 と似ているところがあるのではないだろうか。
 というのは、当時の日本のスローガンとして、
「富国強兵」
 というものと、
「殖産興業」
 ということであった。
 これは、元々、
「日本が鎖国をしていた」
 ということで、徳川幕府下において、開国を申し込んでくる各国があったが、それらをいかに、さっりげなく断るかということで、
「我が国の外交は長崎に限られる」
 として、長崎まで行かせている間に、のらりくらりと、
「開国はしない」
 と言い切れたのだが、
「ペリーのよる砲艦外交」
 つまりは、
「脅し」
 というもので、開国せざるを得なくなったということで、最初こそ、
「外国打ち払い」
作品名:夢の連鎖の悪夢 作家名:森本晃次