二階級特進
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、説定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和6年9月時点のものです。お話の中には、事実に基づいた事件について書いていることもあれば、政治的意見も述べていますが、どちらも、「皆さんの代弁」というつもりで書いております。今回の事件も、「どこかで聞いたような」ということを思われるかも知れませんが、あくまでもフィクションだということをご了承ください。今回は最初の方で、外人に対しての誰もが感じていることを書いていますが、これもフィクションだと思っていただけると、というところです。今回も政治経済への皮肉は、フィクションです。
プロローグ
夏に入ってから、猛暑が続いていたが、最近では、時々ゲリラ雷雨というものが続き、天気が不安定であった。
だから、夏休みともなると、山間部への避暑を求めてか、山間の公園であったり、ペンションなどを訪れる人も増えてきた。
しかし、ここ数日は、天候があまりよくなく、都心部から訪れる人も少なかったのだが、また天気もよくなり、都心部の猛暑に比べると、山間部はかなり涼しいということで、またしても、遊びに来る人が増えていたのだった。
この有明村というところは、江戸時代には、藩が置かれているほどのところであり、昔はそれなりににぎわっていたということであるが、今では、
「避暑地」
として、その風光明媚な場所を訪れる人くらいしか、ほとんど人はいないということであった。
「有明村に藩があった」
といっても、藩主がいて、収めていたわけではない。
元々は、大名が存在したのだが、江戸時代初期における。
「改易ラッシュ」
というものに引っかかり、
「お家断絶」
ということになった。
別に、
「幕府に睨まれる」
というようなことがあったわけではない。
「豊臣の重要大名」
だったり、
「幕府に逆らって、城や軍備の増強を行った」
などということもない。
ただ、
「運が悪かった」
というべきか、跡取りができなかったわけで、それでも何とか、他の藩との縁組を考えたが、縁組を行うについても、
「幕府の許可がいる」
ということで、跡取り問題が解決せぬ間に、藩主が死んでしまったのであった。
そのため、
「後継者不在」
ということで、
「お家取り潰し」
ということになったのだ。
「改易理由」
として、
「後継者不在」
というのは、立派な理由である。
幕府からすれば、
「余計な策を弄することもない」
ということで、後ろめたさもないということから、この理由での改易というのは、これほど、ありがたいことはないといえるだろう。
もちろん、そんな
「改易ラッシュ」
というものがいつまでも続くわけもない。
そもそも、
「改易を行う」
というのは、豊臣家が滅んだことで、それまでの、
「戦乱の世が終わった」
ということと、それに代わる政権として、
「徳川家が君臨する」
ということを確立させるための政策ということである。
つまり、
「改易というものが、太平の世においての、禍根を残さない」
ということへの、
「大義名分としての、免罪符」
とでもいえばいいだろうか。
ただ、徳川時代というのは、
「幕藩制度」
というものである。
「幕府が全国を治める」
といっても、それぞれの領地は、大名によって治められる。
それなりの権力を持っているということから、あまり潰しすぎると、
「天下の政」
というのが、滞ってしまう。
だから、幕府にとって、
「脅威となりそうな大名」
というものを、最初に取り潰しておく必要があるということであった。
ただ、問題は、あまりにもたくさん取り潰したせいで、その副作用ということで、
「浪人の増加」
ということであった。
つまりは、今の時代であれば、
「会社が倒産した場合、従業員が路頭に迷う」
ということである。
つまり、
「取り潰しになった藩に仕えている役人や武士が、すべて、職を失う」
ということになる。
いわゆる、
「徳川時代における、大規模な失業問題」
ということになるわけだ。
他の藩に、仕官を求めようとしても、他の藩でも、
「財政逼迫」
ということで、余人を雇うわけにはいかない。
もっといえば、
「そもそも、藩の財政がひっ迫したというのも、幕府の政略として、幕府に歯向かうだけの力をそぐということを目的に、いろいろと取り決めを決めたりしたからだ」
といえるだろう。
まずは、
「天下普請」
などといわれる、公共工事を、
「藩に任せる」
ということであったり、
「諸藩から、その工事に必要な費用や、人足を出させることで、
「藩に余計な金を残させない」
というやり方。
さらには、
「参勤交代」
ということで、
「一年や、数年、藩主を江戸住まい」
ということにして、
「江戸と、自分の藩との間を、往復させる」
というやり方を行い、いわゆる、
「大名行列」
というものでの、
「大領人数による旅行」
ということで、財政を奪うというやり方だ。
参勤交代での費用というと、当然途中の宿泊代などもかかるわけで、しかも、他の藩も同じところに泊まったりして、その旅籠や庄屋の家などは、
「本陣」
などと言われ、栄えたものだが、当然、藩ごとに、
「プライド」
というものがあり、
「石高では自分の方が上なので、費用を安くするわけにはいかない」
などというプライドもあることだろう。
宿場においては、藩主や役職をもてなすということで、その費用も、かなりのものということになるだろう。
社員旅行と違って、
「給与天引き」
などというもので、ため込んでの旅行ではないので、
「参勤交代の片道だけでも、相当な費用であるといことは想像がつく」
ということになるだろう。
どこの藩もそんな状態なので、
「新しく、召し抱える」
などという余裕があるわけではない。
それどころか、
「いつ改易になるか分からない」
ということで、倹約を言われる時代だったことで、考えてみれば、
「完全に幕府が、自分たちだけのことしか考えていなかった」
と言われても仕方がないだろう。
とはいえ、
「封建制度」
という時代なので、大っぴらに文句などいえるわけはない。
有明村というところは、山中にあることで、海産物はまったく望めない。
そのため、
「米や山菜などによる作物が主な年貢」
ということになるのだろうが、実際には、
「良質な米がとれるような土地」
プロローグ
夏に入ってから、猛暑が続いていたが、最近では、時々ゲリラ雷雨というものが続き、天気が不安定であった。
だから、夏休みともなると、山間部への避暑を求めてか、山間の公園であったり、ペンションなどを訪れる人も増えてきた。
しかし、ここ数日は、天候があまりよくなく、都心部から訪れる人も少なかったのだが、また天気もよくなり、都心部の猛暑に比べると、山間部はかなり涼しいということで、またしても、遊びに来る人が増えていたのだった。
この有明村というところは、江戸時代には、藩が置かれているほどのところであり、昔はそれなりににぎわっていたということであるが、今では、
「避暑地」
として、その風光明媚な場所を訪れる人くらいしか、ほとんど人はいないということであった。
「有明村に藩があった」
といっても、藩主がいて、収めていたわけではない。
元々は、大名が存在したのだが、江戸時代初期における。
「改易ラッシュ」
というものに引っかかり、
「お家断絶」
ということになった。
別に、
「幕府に睨まれる」
というようなことがあったわけではない。
「豊臣の重要大名」
だったり、
「幕府に逆らって、城や軍備の増強を行った」
などということもない。
ただ、
「運が悪かった」
というべきか、跡取りができなかったわけで、それでも何とか、他の藩との縁組を考えたが、縁組を行うについても、
「幕府の許可がいる」
ということで、跡取り問題が解決せぬ間に、藩主が死んでしまったのであった。
そのため、
「後継者不在」
ということで、
「お家取り潰し」
ということになったのだ。
「改易理由」
として、
「後継者不在」
というのは、立派な理由である。
幕府からすれば、
「余計な策を弄することもない」
ということで、後ろめたさもないということから、この理由での改易というのは、これほど、ありがたいことはないといえるだろう。
もちろん、そんな
「改易ラッシュ」
というものがいつまでも続くわけもない。
そもそも、
「改易を行う」
というのは、豊臣家が滅んだことで、それまでの、
「戦乱の世が終わった」
ということと、それに代わる政権として、
「徳川家が君臨する」
ということを確立させるための政策ということである。
つまり、
「改易というものが、太平の世においての、禍根を残さない」
ということへの、
「大義名分としての、免罪符」
とでもいえばいいだろうか。
ただ、徳川時代というのは、
「幕藩制度」
というものである。
「幕府が全国を治める」
といっても、それぞれの領地は、大名によって治められる。
それなりの権力を持っているということから、あまり潰しすぎると、
「天下の政」
というのが、滞ってしまう。
だから、幕府にとって、
「脅威となりそうな大名」
というものを、最初に取り潰しておく必要があるということであった。
ただ、問題は、あまりにもたくさん取り潰したせいで、その副作用ということで、
「浪人の増加」
ということであった。
つまりは、今の時代であれば、
「会社が倒産した場合、従業員が路頭に迷う」
ということである。
つまり、
「取り潰しになった藩に仕えている役人や武士が、すべて、職を失う」
ということになる。
いわゆる、
「徳川時代における、大規模な失業問題」
ということになるわけだ。
他の藩に、仕官を求めようとしても、他の藩でも、
「財政逼迫」
ということで、余人を雇うわけにはいかない。
もっといえば、
「そもそも、藩の財政がひっ迫したというのも、幕府の政略として、幕府に歯向かうだけの力をそぐということを目的に、いろいろと取り決めを決めたりしたからだ」
といえるだろう。
まずは、
「天下普請」
などといわれる、公共工事を、
「藩に任せる」
ということであったり、
「諸藩から、その工事に必要な費用や、人足を出させることで、
「藩に余計な金を残させない」
というやり方。
さらには、
「参勤交代」
ということで、
「一年や、数年、藩主を江戸住まい」
ということにして、
「江戸と、自分の藩との間を、往復させる」
というやり方を行い、いわゆる、
「大名行列」
というものでの、
「大領人数による旅行」
ということで、財政を奪うというやり方だ。
参勤交代での費用というと、当然途中の宿泊代などもかかるわけで、しかも、他の藩も同じところに泊まったりして、その旅籠や庄屋の家などは、
「本陣」
などと言われ、栄えたものだが、当然、藩ごとに、
「プライド」
というものがあり、
「石高では自分の方が上なので、費用を安くするわけにはいかない」
などというプライドもあることだろう。
宿場においては、藩主や役職をもてなすということで、その費用も、かなりのものということになるだろう。
社員旅行と違って、
「給与天引き」
などというもので、ため込んでの旅行ではないので、
「参勤交代の片道だけでも、相当な費用であるといことは想像がつく」
ということになるだろう。
どこの藩もそんな状態なので、
「新しく、召し抱える」
などという余裕があるわけではない。
それどころか、
「いつ改易になるか分からない」
ということで、倹約を言われる時代だったことで、考えてみれば、
「完全に幕府が、自分たちだけのことしか考えていなかった」
と言われても仕方がないだろう。
とはいえ、
「封建制度」
という時代なので、大っぴらに文句などいえるわけはない。
有明村というところは、山中にあることで、海産物はまったく望めない。
そのため、
「米や山菜などによる作物が主な年貢」
ということになるのだろうが、実際には、
「良質な米がとれるような土地」



