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真奈が放った短いひと言には、これまでにない濁った暗さがあって、正直ぎょっとした。今までにも色々なことがあったが、真奈がそんな声で話すことはなかった。そのときよぎったのが、まさに英二がケショウさんと揉めていたときの、強がっているのか本音なのかよく分からない口調だった。ちなみに、英二があれだけ悩んでいたケショウさん問題は、夏休み明けから静かに引いていき、あっさりと終わった。真奈とミッツ―の件も同じように進めば万々歳だが、両方手持ちのカードがたくさんある大人同士だから、どう転がるかは予想できないし、このまま悪くなっていくのなら相当長引くだろうと思った。
二人の件も同じように進めばいいが、今思えばケショウさんの顛末はあまりに尻すぼみで、あっけなかった。二学期が始まって、ケショウさんはまた不登校気味になり、英二はしばらく伸び伸びと過ごしていた。唯一起きたことと言えば、岡本が終業式で『菅生さんは、冬休み明けからまた来ます』という、英二からすれば死刑宣告に近いことを言ってのけたぐらいだった。しかし、ケショウさんは冬休みが明けても戻らず、ケショウさんの父親すら、夏になるころには家を引き払っていなくなっていた。岡本は何度か家庭訪問を試みたらしいが、全て門前払いに終わったらしい。そこから深追いしないのが岡本のいいところでもあるし、教師失格なところでもある。菅生家の存在自体が問題そのものだったから、去って文句を言う奴もいなかった。
ケショウさん問題が解決した後、おれは中学三年生の一年間を、それなりに喧嘩っ早い不良として過ごし、家にはあまり帰らないようになった。英二が同じ中学校に上がるから、怖い先輩方の仲間入りをしておく必要があるという、大義名分もあった。いつの間にか沼の傍が定位置になったふそうFPにも近づかず、なんなら笠岡家全体と距離を取っていた。ありがたかったのは、母が単純に『反抗期』だと解釈して、うまい具合におれを放っておいてくれたことだ。言いたそうなことが全身の毛穴から漏れ出している親父と違って、母は昔から感情を外に出さず、三人の子どもの母として淡々と役割をこなしていた。唯一感情が見え隠れしたのは高層マンションに引っ越したときで、五年前。おれが実家に残ると伝えたときだった。母は初めから家を売り払うものだと思っていたらしく、おれが住み続けると言うと、驚いていた。
『洋一は、あの家の何がいいの?』
そう言って、母はすぐに目を伏せた。自分で自分の言葉に平手打ちを食らったみたいだった。もしかしたら、自分の考えでおれの思い出を上書きしてしまうと思って、怖くなったのかもしれない。おれからすれば、親父のどこが良かったのか聞いてみたかったが、それも何かいいところがあったから、二人は一緒になったのだろう。そしておれは、物言いや態度が親父に少しずつ似てきていた。それは自覚症状ではなく、母がおれを見る目で分かった。
親父やおれのように、『笠岡家』という看板の真横でなんとなく先頭に立つ人間。そんな役割を負っている人間には、核心に触れることを笑顔で伏せるだけの度量が求められるし、それは大抵、付き合いの長い人間からは『本心を見せない』という風に解釈される。親父は感情を常に爆発させていたが、今になっておれは、あれが親父なりの『演技』だったと思っている。何をしでかすか分からない、狂った小男。それが親父のキャラで、あの家からほどよく不要な人間を遠ざけ、話の面白さや勢いで磁石のように大事な人間を惹きつけていた。おれはおれで、自分のバランスを見つけなければならない。しかし、とりあえず考え付いていたアイデアは、家の鍵を全て入れ替えるということぐらいだった。だから、おれは短く答えた。
『分からん』
母にどう説明するにせよ、あの家は壊してはならない。それがおれの考えだった。
当時、三十歳になったばかりのおれを見て、母は婚期とかそういうことも考えていたのだろう。おれは笠岡建材の『御曹司』だということを誰にも言わずに、全く別の運送会社で配車係をしている。デスクワークで、毎日同じ人間としか顔を合わせない。相手はほぼ全員、おれより年上のおじさんだ。母の目は、常に未来を向いていた。そのとき目の前にいたおれじゃなくて、その五年後ぐらいのおれを見通していた。つまり、今のおれだ。
「ねぎ!」
真奈が突然叫び、タラの骨を取っていた途中だったおれは、切り身の上を滑るピンセットを貫通させそうになった。
「急に呼んだるなや。ねぎがびっくりするやろ」
「忘れたー、買ってくるわん」
真奈は手を洗うと、返事も待たずに駆け出していった。靴を履くために屈みこんだとき、おれの方をぐるっと振り返ってから、にっと笑った。
「下駄箱周り、めっちゃ綺麗やな。兄ちゃん、実は綺麗好きやんね」
真奈を見送ったおれは、骨をあらかた取り終えたタラを冷蔵庫に一旦戻すと、傾いたふそうFPの前に戻った。居座っているカラスを見つめながらハートランドを飲み干すと、錆が浮いたドアにもたれかかった。びくともしないようで、少しずつ沼に向かって傾きつつある。何にだって、残り時間はあるということだ。
すい臓がんと診断された親父が、そこから八カ月しか生きられなかったように。
おれはふそうFPのドアを開けると、乗り込んで運転席まで体を滑らせた。そして、刺さりっぱなしになったキーを回し、エンジンをかけた。V8が居場所を求めてあがくように振動しながら息を吹き返し、排気漏れが混ざる荒々しいエンジン音が響き渡った。音に驚いたカラスが一斉に飛び立って、不思議と静かに思えるぐらいまでになった。おれは助手席を伝ってキャビンから降りると、ブームの操作をするためのレバーに触れた。親父がおれだけに教えた、操作方法。ディーゼルエンジンの轟音は、ブームが動くときにひときわ猛々しくなる。操作レバーを握り込み、真っ黒な排気ガスが濁していく夕焼け空を見上げながら、もう一本ハートランドを持ってくるべきだったと思った。自分ではない誰かが遺したもの。親父からすれば祖父で、おれからすれば親父。それが意味を失くしてもなお力強く動いている姿を肴に飲むビールは、格別だ。
三十分ほどして真奈から『ねぎ確保』とメッセージが届き、おれはふそうFPのエンジンを止めた。
カラスはあらかた、いなくなった。夜になればまた来るだろうが、包丁を握る真奈の手元は狂わせたくない。真奈自身は覚えていないらしいが、鳥嫌いになったきっかけはスズメの群れだ。死にかけたバッタを集団で取り囲んで、交代で突いて少しずつ弱らせていた姿を見て、バッタに感情移入したらしい。ちょうどケショウさんが猛威を振るっていたころの話だから、スズメからすればいつもの食事風景だが、いじめに見えたのかもしれない。
おれは家の中に戻って、台所の前に立った。タラの切り身だって、おれたちの場合はパックに入っているところからスタートしているが、実際にはどこかの漁師が寄ってたかって殺した魚の部品だ。
どんなことだって元を辿れば、それなりにロクでもないことが起きている。
− 二〇一六年 九年前 初冬 −



