Dreg
親父は鍛高譚の残りをグラスから一気に飲み干すと、顔をしかめたまましばらくその場に固まっていたが、言いたいことを整理できたみたいで、一度喉を鳴らした。
「英二、ケツにひかれてええんか?」
ここからは、相手の本音を引き出すモード。おれは二人の目の前にいるが、いないものとして扱われている。英二の腕にみみずばれができるのを許した兄なのだから、今のおれは兄としては透明人間だ。英二が答えられないときに助け舟を出したことがあるが、親父は空耳のようにきょろきょろと辺りを見回しただけで、目すら合わせなかった。
沈黙がしばらく流れた後、英二が珍しく顔を上げて、親父の目を見返した。親父も親父で、珍しく歯を見せて笑った。
「英二、志門くん見てみいや。あいつはあれでもな、ほんまの昔はおれより力が強かったし、学校でいじめらるまでは負けず嫌いやったんや。それがお前、学校で根性抜かれて、澄まし腐った家に婿入りして、どないなった? あれになりたいかお前。あれは男か?」
その言葉は、英二の頭の中にするすると入り込んでいるようだった。いつもおれが『お説教』として聞き流している言葉だが、英二の中では何か強く共鳴するものがあったのかもしれない。
「ほんでお前は、そのケショウさんいう女子をどないしたいねん、本音で言え」
「殺したい」
英二がぽつりとつぶやくと、親父は笑顔でうなずいた。
「おー、ええやんけ、その意気や。殺すなよ」
そこで英二が笑った。親父は英二の肩をぽんと叩くと、言った。
「絆創膏貼っても治らんから、お母さんに言うて軟膏塗ってもらえ」
英二が立ち上がって台所に歩いていき、騒ぎをずっと遠巻きに見ていた真奈がようやく両手を頬に持って行って、涙を拭った。親父は首を伸ばして、声を張った。
「志門くん、テレビええとこ逃すぞー」
志門おじさんが缶ビール片手に戻ってきて、テレビにすらお辞儀をするみたいに低姿勢で酒の席を再開した。おれは何となく次に起きそうなことを予測したが、体はまだ強張っていて動かなかった。親父はおれのほうをちらりと見ると、なかなか除霊できない幽霊が居座っているみたいに、目を逸らせながら言った。
「見るな」
おれが受ける罰としては、まあそんなもんだろう。ここで変に言い訳しても無駄なのは、昔から変わらない。それに今まで、親父が夜を通り越しても怒っていたことはないから、ひと晩静かにしていれば次の日には元通りの『笠岡家』に戻っている。
おれが廊下に出るとき、親父はテレビに目を戻しながら『菅生か……』と繰り返し呟いていた。真奈が後ろをとことことついてきて、おれが体ごと振り向くよりも先に背中にすがりついた。真奈が声を出して泣くときは、大抵この体勢だ。
自分が引き起こしたと思っているから、こういう反応になる。当事者以外にも罪悪感を植え付けることでその辺が曖昧になりやすいのが、笠岡家の教育の悪い所だ。
「痛そうやったんやもん」
真奈が言い、おれは体ごと振り返った。真奈は背中に接着されたみたいに一緒に回り、おれは笑った。
「なんで、後ろにしがみついてんねん」
真奈が笑ったのが、体の揺れで分かった。おれはしばらく左右に体を揺すりながら歩き、少し歪んだ廊下の真ん中で屈みこんだ。
「はい、無料区間終了でーす」
真奈は素直に離れて、廊下の真ん中で少しだけよろけながらバランスを取った。こんなに素直な小学二年生もいれば、不登校気味でたまに現れたらターゲットを攻撃するケショウさんのような小学五年生もいる。だとしたら、英二はどういう小学五年生で、おれはどういう中学二年生なんだろう。そして、このまま時間が過ぎれば全員が『大人』という肩書に切り揃えられる。
ひとくくりにされるのはごめんだが、右にならえで大人の肩書を貰える日は、どこか待ち遠しくも感じた。
− 現在 −
午後六時になり、おれは舞茸を房からバラしながら言った。
「ケショウさんって、覚えてるか?」
鍋を洗っていた真奈は、水道の蛇口を少しだけ閉めて音を下げてから、宙を見上げた。
「あー、菅生家の娘ちゃう?」
小学二年生のときの記憶だから、それぐらいの濃さでも不思議じゃない。おれは舞茸をカゴに放り込んで、言った。
「よう覚えてるな」
「なんで、急に出てきたん?」
真奈はおれの手元にひょっこり顔を出して、言った。
「なんやろな、ふと思い出しただけや。お前が覚えてるか、気になってな」
「んー、名前だけやな。顔とかは知らんってか、会ったことない気がする。英ちゃんと仲悪かった子よね?」
真奈が言い、おれはうなずきながら笑った。確かに仲は悪かった。攻撃は、ケショウさんから英二への一方通行だったが。真奈からすればそんな昔のことを聞かれるのは不思議だろうが、おれからするとそれぐらいの記憶で居てくれたほうが安心だ。
あの絆創膏騒ぎのとき、夜さえ過ぎれば元通りになる笠岡家の慣習に倣い、親父の怒りは夜の内に収まって次の日は全員で朝飯を食べた。そんな中、唯一元に戻らなかったものがあった。それは、真奈の相談相手だ。今までは全員にまんべんなく話しかけていたのが、あの日以来、その相手はおれひとりに絞られた。大人になった今は上っ面で繕っているが、中身は変わっていないように思える。だから、ミッツ―関係の話を聞いてるのもおれだけだ。真奈が会話の続きを待っていることに気づいて、おれは咳ばらいをした。
「仲の悪さで言うたら、お前とミッツ―ぐらいやったな」
「それ、最悪やん。わたし、ミッツ―の葬式とか想像してるからな。ピンクのスーツで出向いて、一曲歌ったろうと思ってるぐらいやし」
真奈が胸を張り、おれは苦笑いを浮かべた。
「何を歌うねん?」
「西野カナの、会いたくて震えるやつ。替え歌にして、会いたくてのとこは知らんけどに変えたろうと思ってる。具体的やろ」
「知らんけど、知らんけど、震えるって歌うんか? それは風邪引いとるんちゃうんか」
おれが言うと、真奈は鍋を拭き上げていたタオルでおれの腕を軽く叩いた。
「ほんまに、兄ちゃんは茶化してばっか」
「ピンクのスーツで人の葬式茶化しにいく想像しとる奴が、よう言いますわ」
おれはそう言って、タラの切り身をパックから取り出した。真奈とおれが、知らず知らずの内に決めていた紳士協定。それは、どんなことが起きたとしても、意地でも『茶化す』ということ。だから先週は、本当に心配した。いつものように、良妻チェックに忙しいミッツ―のことを茶化したときのことだ。
『お前のことをほっとかれへんのやろ。おれの女版みたいなもんちゃうか?』
これでしばらくげらげら笑うだろうと思っていたら、真奈は真顔で首を横に振ったのだ。
『ちゃうよ』



