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これが、先週の会話のハイライト。おれは初めて、真奈の結婚生活が上手くいっていないのではないかと疑念を抱いたが、今思えば間抜けを通り越しているぐらいに鈍感だった。
『お前のことをほっとかれへんのやろ。おれの女版みたいなもんちゃうか?』
おれはそう答えた。真奈は、おれの冗談でげらげら笑う。親父が笑かそうとしても、母が天然ボケをしても、真奈は口角を上げるだけで口を開けて笑うまではいかなかった。それは英二と話しているときでも同じだ。でも、おれがくだらない冗談を言うと、横に倒れそうになりながら足をつっかえ棒みたいにして、げらげら笑う。
おれは今、先週のやりとりを思い出しながら久々にふそうFPのエンジンをかけて、辺りを曇らせる真っ黒な排気ガスを見ている。土曜日の午後四時半で、そろそろ真奈がやってくるころだ。義姉が結婚生活に介入してくるのは確かに常識外れもいいところだが、出張族の夫からすれば妻は義兄にべったりなわけで、なんとも言えない。
沼は十月の終わりになってようやく蚊がいなくなり、肌寒い空気の中で見下ろす深緑の濁った水は、何も映し出さない。太陽の光や、半分ぐらい被る木々。本来ならそういったものが水面に映り込むはずだが、沼の水面は鉛みたいに重く、艶消しのようにぼんやりとしている。この沼にここまで近づけるのは、親父とおれだけだった。英二と真奈は危ないから近づくなと厳しく言い渡されていて、五歳のときに約束を破った真奈は、親父が沼の上で高い高いをやって死ぬほど怖がらせたことで、今でも近づこうとしない。
しかし、おれだけは沼に近づくことを許された。親父は誰かが置いていったキャンプ用のテーブルに缶ビールとつまみのビーフジャーキーを置いて、小学六年生だったおれに言った。
『洋一、こいつの動かし方も覚えとけ』
ふそうFPのエンジンのかけ方と、ブームの操作方法。親父は妙に熱っぽく、おれが慣れない手つきでレバーを操作する様子を肴に、ビールを飲んでいた。今おれは、かつて親父がビールを置いていたのと同じテーブルにハートランドを立てて、最近新しく買った座椅子に座っている。
ポケットの中でスマートフォンが震えて、『着いた、開けてー』とバナーに表示されているのを見たおれは、ふそうFPのエンジンを止めて、家の中に戻った。自分ひとりになってから、家の鍵は全て入れ替えている。真奈は不服そうだが、一応はおれの家だ。傾いた廊下を抜けて玄関を開けると、少し疲れた風だった真奈が表情を切り替えて、歯を見せながら笑った。
「うわっほ、煙たい。兄ちゃん、煙草吸ってた?」
「吸ってへんわ」
おそらく、ディーゼルエンジンの排気ガスを纏っているからだろう。真奈は昔から嗅覚が弱く、魚の出汁を自信満々に『野菜スープ!』と宣言したことすらある。真奈はわざとらしく鼻をひくつかせると、後ろ手に玄関を閉めて靴を脱いだ。スニーカーでもハイヒールでも左側に叩きつけるように脱ぎ捨てるのは、昔から変わっていない。
「がらんとしてるわー、寂しくないん?」
真奈はそう言うと、片手に持った買い物袋を台所に置いて、コートを脱いだ。
「ウールか」
「そんなええもんちゃうわ。アクリルや」
「聡くんは、出張か?」
「うん、しょっちゅう出張や。噛みそうなるで」
おれは思わず笑った。いつだって言葉の端々に冗談が入るのは、真奈のいいところだ。本人からすると、その冗談が句読点のようなもので、封じられると次の言葉がすっと出てこないのだと言う。
「聡くんは、どこに出張行ってんの?」
おれが訊くと、買い物袋から鍋の具材をぽんぽんと取り出している真奈は、首を傾げた。
「マレーシア。なんか読まれへん町におる」
「エリートやな」
おれは聡くんの真面目そうな顔を思い出しながら、冷蔵庫のドアを開いた。真奈がやってくるとき、大抵は鍋料理になる。昔は色んな人間が揃った居間の真ん中に鍋を置き、向かい合わせになって食べるわけだが、おれと真奈が喋っていると、不思議とそこにいない人間が相槌を打ってきているような、空耳でもない何かが聞こえる気がする。
「ずんずん出世してほしいわ。出世の擬音って、ずんずんで合ってる?」
そう言うと、真奈は遠い目で目の前の戸棚を見つめた。おれはマレーシアの方角を意識しながら、同じように目を細めた。
「人によるな」
「せやな、がんばれサトル」
真奈はそう言うと、相槌を打つようなカラスの鳴き声に首をすくめた。今朝から裏手で鳴いていて、真奈は生きている鳥全般が苦手だ。
「カラス周回してない? わたし、文鳥とかは好きになってきたんやけど、カラスだけはほんまに苦手やわ」
「鳥があかんのは、もうこのまま変わらんな」
「飛んでんと、最初から串に刺さっといてほしいねん、タレで。あ、焼き鳥も買ってきたで」
真奈はそう言うと、カラスに遠慮するようにプラスチック容器に入った焼き鳥五本セットを袋から取り出した。おれが一本抜きとろうとすると、手をぴしゃりと叩いて跳ね返してから、冷蔵庫の中身を一瞥して目を丸くした。
「大丈夫? 空っぽやんか」
「こないだ、ちょっと人呼んだからな」
おれが言うと、真奈は意外そうに眉をひょいと上げてから、全ての調味料の期限を再確認し、マヨネーズを取り上げた。
「これ、期限切れてるって前にゆうてたのに」
「今も切れてるか?」
「期限が巻き戻るわけないやんか」
真奈は、半分に折れたチューブを摘まみ上げてゴミ箱に放り込むと、買い物袋から取り出した真新しいマヨネーズと差し替えた。
「買うて来てくれてたんか。ありがとな」
おれが顔を向けると、真奈は歯を見せて笑った。
「愚痴をお焚き上げさせてもらうんやから、これぐらいお安い御用よ」
「カラスは後で追い払うから、心配すな」
おれが言うと、真奈は俯き加減になってシンクへ笑顔を向けた。
「実家やな。うちらしかおらんけど。いや、ええこともあったし、ええねんで。ええねんけどな」
「ミッツ―か」
おれが言うと、真奈は肩をすくめた。
「まあ、合いませんわあの人とは。段取りが上手いのは認める。テキパキしてるし、キャリアウーマンやからね。こちとら大学中退の風来坊事務員でございますもんで」
「もうお焚き上げ始まっとるがな、飲んできたんか?」
「飲んでないよ。兄ちゃんこそフライングしてない?」
真奈がまた鼻をひくつかせて、おれは顔を引きながら言った。
「さっき言うてた、ええことってなんや。兄のためにマヨネーズ買っといて、よかったってことか?」
おれが言うと、真奈は笑いながら首を強く横に振った。
「スケール、ミジンコやん。しかも、完全に自分の話やし。ちゃうよ、ミッツ―こないだから登山行ってるから、良妻チェックが三日連続で来てないねん」
「よかったな」



