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おそらく英二は、ずっと人を殺したがっていた。どこでどう歪んだのかは分からないが、それを修正する環境は笠岡家には存在しなかった。だからあの殺しは、裁判で争点に挙がったような衝動的なものじゃない。おれだけは知っているが、あいつは真奈の将来がどうなるかなんて考えることもなく、昔からずっとやりたかったことを最高の環境で成し遂げた。それだけだ。そうやって英二は遠い星の宇宙人みたいな存在になり、去年刑期を満了して出所した。今は母の買い物を手伝ったり、刑務所で何か憑き物を払い落としたように、大人しくなったらしい。おれは、もう顔を見るつもりはない。でも、真奈があいつのやったことを許せるなら、二人の関係だけは戻って欲しいと思うときもある。
ねぎが確保されて、夜の七時過ぎには味噌風味の鍋が完成した。ビール片手に、向かい合わせに座って鍋をつついていると、真奈がここまで元の軌道に戻ってくれて、本当に良かったと思える。その間、お互いに茶化して乗り切るこのやり取りだけは、ずっと形を変えていない。ただ、本当の暗部については誰にも語れない。だからどれだけ酔っぱらっても『かさタコ』の話はしないし、真奈はあのクライスラーインペリアルが眠る車庫にも近寄らない。
真奈は、一年近く家に籠った。その間、口癖のように『殺しの合図を出したんは、わたしなんやで』と言っていた。英二が何をするか知らなかったのだから、罪の意識を感じる必要はない。立ち上がるなり棚の包丁を抜くなんて、そんなことは想像しないだろう。そう思っていたが、結局真奈はその罪悪感に押し潰されて、大学生活のレールから下りた。
いつもより酒が進み、夜の九時ぐらいになって、頬をピンク色に染めた真奈は、テーブルにぐったりと体を預けたまま言った。
「なー、合鍵さあ。いつくれるん?」
「ここは、おれの家や」
おれが宣言するように言うと、真奈は苦笑いを浮かべた。
「ふぁー、お父さん生きてたら、めっちゃ言いそう。でもな、お父さんかて、おじいちゃんの家を受け継いだだけやんか。てことはさ、ここは誰の家でもないねんで」
「まあ確かに、おれが住んでるだけやな。ほなお前、合鍵あったら毎日出入りするか?」
「する」
真奈は宣言して、しばらく瞬きを繰り返しながら空になった鍋を見つめていたが、突然悟ったように眉をハの字に曲げた。
「なんか、分かったかも」
おれが耳を澄ませると、真奈は体を起こした。
「今、わたしな。なにがなんでも兄ちゃんにミスってほしくないって、そう思ってん」
「おれ、そんなに人生ミスってるか?」
おれが笑うと、真奈は笑いながら小さく首を横に振った。
「いや、しっかりしてると思うけど。そうじゃないねん、来月とか、半年後とか。わたしが想像してる兄ちゃんの姿があって、それは今より良くなってるはずなんよ。でも、未来のことなんか、誰も分からんやんか」
「その姿に近づけるために、合鍵使って入りまくるってことか? その未来のおれは、どんな姿やねん?」
おれが言うと、真奈は首を傾げた。
「長袖、もう一枚着てる」
「真冬になっただけやがな。そんなもん自分でするわ」
ひとしきり笑い、おれがコンロを片付け始めたときに真奈は言った。
「ミッツ―の気持ちが、ちょっと分かったかも。わたしは、聡の未来の一部でもあるから」
「そんな殊勝なこと言うとったら、ガーンってかまされんぞ」
おれが言うと、真奈は肩をすくめて笑った。
「自分に置き換えたら、分かるよ。兄ちゃんに変な女ついたら、絶対嫌やし。関白宣言の、できる限りで構わないから抜いたバージョンで、頑張ってほしいもん」
「それ抜いたら、ただの亭主関白やろ。お前もミッツ―みたいになりそうで怖いな」
おれはそう言って、真奈と片づけを済ませた。タクシーを呼びたかったが、真奈は電車で帰ると言い張って、帰っていった。ひとりに戻った家の中は、ずっと話しこんだ熱気が残っている。おれは冷蔵庫からハートランドを一本取ると、裏から外へ出た。星は見えないが、沼の前にたたずむふそうFPはどこか光って見える。さっきより、沼に向かって傾いているような気がする。カラスが周回を始めていて、おれはそれを見上げながら角度を変えて、トラック全体を見渡した。右側のアウトリガーが、泥の中に沈み込んでいる。おそらく、おれと真奈が鍋を囲んでいる間にそうなったのだろう。おれはふそうFPの運転席に上がり、エンジンをかけた。V8エンジンの轟音が息を吹き返し、おれは助手席を伝って降りると、レバーを操作してブームを持ち上げた。親父は『上げるときはゴーヘイ、下げるときはスラ―言うねん』と教えてくれた。
不動産業を軸に、祖父の事業から距離を置いていた親父は、祖父の遺した『腕一本』という言葉が嫌いで、自分の言葉に自分で揚げ足を取って、勝手にキレていた。祖父の象徴だったトラックが君臨する沼には、誰も近寄ってはいけない。色々なルールがあって、それは三人の子どもの間でちゃんと合理性が保たれていた。
おれが親父から操作方法を教わったのは、誰かがそれを続けなければならないからだ。
真奈は、鍵を替えた理由に気づいていない。その理由は、この家を守る人間だけが知っていればいいことだ。おれは、いずれ自分がそうしないといけないということを、昔から知っていた。それこそ、中学二年生のときから。
絆創膏が欲しいと真奈が言って、英二が呼ばれ、志門おじさんがサンドバッグにされて、おれはいないことにされた、遠い昔の夜。親父は『菅生か……』と呟いていた。今思えばその口調は、英二が呟いていた『殺したる』と、全く同じだった。
夜中に突然、ふそうFPのエンジンが轟音を上げたのは、冬休みが始まって二日が経ったときだ。おれは眠れなくて、台所のお菓子をこっそり食べるために廊下を歩いているところだった。ブームを操作するときの、ひときわ高い回転数のエンジン音。おれは静かに裏へ出ると、操作レバーの前でビールを飲んでいる親父の後ろ姿を見つめた。ずっと下がっていたブームがゆっくりと上がっていき、水があちこちに散った。
距離はあったが、逆さづりになったケショウさんと目が合った。
制服は沼の水で真っ黒に濡れていて、何故か顔だけがくっきりと見えた。親父はレバーの方を向いていたから、おれには気づいていなかった。
おれは体をドアの裏に隠して、耳だけを澄ませた。
『何度漬けでもええけどや、そろそろ死んでくれるかー』
親父はそう言って、ブームを再び下げた。朝になると、ブームは綺麗に元の場所に畳まれていて、おれが見た光景は夢だったのではないかと思えるぐらいに、ふそうFPは日常に溶け込んでいた。ケショウさんの居場所が沼の底だとおれが確信したのは、年が明けてからのことだった。
親父は『女に手を上げるな』と言って余裕があるように見えたが、違った。それは、いざとなれば『殺しても構わない』からだった。おれの記憶に残っていて、今ここにいないもの。笠岡家と付き合いがあった人間たちの何人が沼の底に沈んでいるのか、おれには知りようがない。年齢が追いつきつつあるからか、親父に聞きたいことは後からどんどんと湧いて出てくる。例えば、おれが英二の殺人を報告したときの、親父の言葉。



