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『そうか、あいつは大した奴やのお』
おれは、そんな風に褒められたことはない。真奈の将来が一旦台無しになって、あのときにおれたちが描けた未来は、逆立ちしても相当悲惨なものだった。しかし、あの親父の褒め言葉は紛れもない本音だった。この家に生まれた以上は、どこかで相手につけを払わせる必要があると思っていたのだろう。
おれは長男で、この家を引き継いだ。だとしたら、その宿命からひとりだけ逃れることは許されない。真奈は、ちょっと先のおれを見通していると言っていた。その目は澄んでいて、感動的ですらあった。でも、真奈には申し訳ないが、おれはケショウさんが逆さづりになっているのを見たときから、今日こうやって自分がここに居るということを、はっきりと見通せていた。それに、おれだって真奈の数年後を見通しているのだ。今まで散々な目に遭ってきたのだから、もう不幸な思いはしてほしくない。
レバーに手をかけて、おれはブームを持ち上げた。きりっと冷えたハートランドはまだ手の中で、栓が抜かれるのを待っている。それにしても、真奈がミッツ―のことをああいう風に理解するとは、思っていなかった。あれだけ分かり合えないと思っていても、どこかでするりと糸がほどける瞬間がある。それを真奈が自分で見つけてくれたのは、嬉しい限りだ。誰に強制されたわけでもなく、いつもより一本多かった缶ビールが真奈の世界を押し広げて、ミッツ―もそんなに悪くないのではないかという結論に至らせたのだ。
「ほんまか?」
おれはそう言うと、ブームを止めた。真っ黒に光る沼の前まで行くと、ハートランドの栓を抜いて、ひと口飲んだ。登山道の入口に残された車は、そろそろ他の登山客の目に留まるだろうか。ミッツーが山中で姿を消して、三日目。入山届の期限は今日だ。
薄暗い山中でおれと出くわしたとき、ミッツ―は現実ではないように目を何度もこすっていた。あの使えない嫁の兄だっけ? あんたも登山してるの? みたいな顔。結婚式で一度会っただけだから、無理もない。
おれは、真奈から色々聞いていたから、全部知っていたが。
それにしても、鍋を食べている間にアウトリガーが泥に沈むとは。親父のように上手くはいかないものだ。これからビールをちびちびやりながら、顏だけが沼から出たミッツ―に色々と訊くつもりだったのだが。車体がさらに傾いたことでアームが下がって、頭まで真っ黒に染まって水浸しになったミッツ―は、すでに死んでいた。あっけないものだ。すぐに殺すのはあんまりだから、三日間世話をしたのに。最後は宙づりにしたまま睡眠薬で眠らせていたから、苦しんでいないと信じたいが。少なくともおれは、親父のように逆さにはしなかった。あれはさすがにやり過ぎだ。
このままだと、カラスがうるさい。
おれはブームを下げると、フックを開放した。ミッツ―の体は沼の中へ吸い込まれて見えなくなり、エンジンを停めると周りの空気はしんと冷えた。
この家は、巨大な暴力装置だ。
そしておれは、一番目立つ場所で回り続ける、最後の歯車。
だから、使えるものは全て使えるようにしておかないといけないし、実際役に立った。手段は選んでいられない。何故なら発端となったこと自体が、そもそもありえないことだった。少なくともおれは、そんな経験をしたことがなかったから本気で心配したし、これはどうにかして解決するべきだと、覚悟を決めた。
一週間前、おれがミッツ―のことを茶化したとき。
『お前のことをほっとかれへんのやろ。おれの女版みたいなもんちゃうか?』
おれの言葉を聞いた真奈は、真顔で首を横に振ったのだ。信じられないことだった。
真奈がおれの冗談で笑わないなんて、そんなことは今までに一度もなかった。そのときに空いた不自然な間は、二度と経験したくない。ミッツ―の件は、全てが初めてのことで緊張はあったが、やってみたら意外に簡単に終わった。
おれは座椅子に腰掛けて、ぐらつくテーブルにハートランドの瓶を置いた。
こうやって、傾いたトラックを眺めながら真っ暗な沼のほとりでビールを飲んでいると、風がときどき触れていく。それはレバーを操作する親父の手で、英二の手を引いていたり、真奈の通知表を見ていたり、鍛高譚が半分ぐらい残ったグラスを持っているときもある。
何を言うでもなく、立ち止まるわけでもなく。ただ、静かに通り抜けていく。それだけだ。
でも今日に限っては、気まぐれにおれの頭を撫でていったような気がした。



