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ナポレオンのボディーガード、ルスタム・ラザの生涯

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 1814年2月、フランス北東部のまだ田畑は白い雪に覆われている。連合軍の圧倒的な兵力に対し、フランス軍は半分くらいの兵力しかなく、しかも徴兵されたばかりの若年兵である。まだ少年の面影を残す者が多かった。
「もうだめだ。奴らは強すぎる。多すぎる」
 経験の浅い彼らは不安と疲労に沈んで戦線が崩壊しかけていた。もう少しでパニックを起こして潰走に移りそうだった。だが、ルスタム・ラザが絢爛たる東洋風の衣装に身を包んで現れると、空気が一変した。その姿は、若き兵士たちにとってまるで物語の中の英雄のようだった。彼は戦場を駆け抜け、叱咤激励した。
「皇帝が来る。戦況は一変する。フランスは諸君らの勇気を必要としているとの仰せだ。皇帝万歳! 皇帝万歳!」 彼は前線を駆け回って叫んだ。
 彼の登場は、皇帝が現れても現れなくても大きな力を発揮した。シャンパーニュ地方の戦場に響いた勝利の勝鬨は、若き兵士たちの士気、皇帝の頭脳、そしてルスタムの異形が織りなす一幕によって支えられていた。
 しかし戦況は悪化の一途をたどり、1814年、ナポレオンはついにフォンテンブロー条約に署名し退位を余儀なくされた。将来を悲観したナポレオンは服毒自殺を試みたが薬が古かったために死にきれず、悶絶して苦しんだ。ルスタムが気付いて水を飲ませて嘔吐させ、介抱した。
 しかし皇帝は感謝するどころか、大声で叱責した。
「死のうとしていたのに何をする! 毒薬を吐いてしまったではないか!」
口を利けるようになった瞬間の大激怒である。
「その短剣で余を殺せ!」
 びっくりしたルスタムが「お許しを。それだけはできません!」と拒絶すると皇帝はその剣を奪おうとした。
飛び下がったルスタムは逃げ回った。
「奴隷のくせになんだ! お前はクビだ!」
 ルスタムは絶望のあまり泣きながらフォンテンブロー宮殿を飛び出した。南東の方角にはエジプトがある。絶対に嫌だ。北のパリには連合軍がいる。自然と西の方角に足は向かい、ドゥーダンという町の入口で絶望と疲労で気を失って倒れた。
「この奇抜な服を着た男は誰だ?」
「まるでルスタム・ラザのようだ」
「この金の刺繡はただモノではないぞ? もしかして本物?」
 人が集まってきて介抱され、その街に住むことになった。軍に出入りの商人を住み込みで手伝った。彼は幼いころの記憶を語り始めた。
「私の生まれた家も商家でした。両親はアルメニア人です。家ではアルメニア語を話していましたが、住んでいたのは異国のグルジアですから子供のころから2つの言葉を使い分けていました。誘拐されてエジプトで奴隷になってからはアラビア語です。皇帝に買われてからはフランス語を勉強して話すようになりました。もうフランス語以外は忘れてしまいましたけどね」
 彼は子供のころの記憶を少しずつ取り戻しつつあった。自分のことを自ら話すのは誘拐されてからは初めてのことである。
「誘拐されて、そんなにひどい目にあったのにどうしてそれを普通のことのように話せるの? あなたは本当に強い人ね!」
 商家の娘はその激動の半生を聞くうちに彼を好きになり、結婚して新しい雑貨店を開業することになった。新妻は言った。
「あなたはもう奴隷ではなくてシトワイヤン(市民)なのよ」
「うーん、正直言ってなんだかピンとこないけど」
「じゃあ、私は貴方だけの皇帝になって分からせてあげるわ。お前は誰だ! グラン・シトワイヤン! 世界で一番幸せ! うふふ」 新妻はルスタムに抱きついて言った。
「幸せってなんだろう?」 ルスタムはまじめに考え込んだ。
ナポレオンが地中海にあるエルバ島に島流しになって再びブルボン王朝の時代になったが帝政時代の名物男、ルスタム・ラザを一目見たいと元軍人が押し掛けてきたので店は大繁盛である。そのまま平穏な日々が続くかと思われたが、ある日、元軍人が目をふせて低い声でルスタムにささやいた。
「小伍長はスミレが咲くころに戻ってくると言ったそうだぜ。この話を信じるなら俺たちのようにスミレ色のリボンを肩に付けろ」
 そんなことはありえないと否定したが、猛烈に心がうずいた。
 自分が自分であるためには主人が必要なのだ。
 再び皇帝に命令されたい! 怒鳴られたい! 危険に身をさらしたい!
 スミレよ、一日も早く咲いてほしい!
 再び奴隷に成るために!!
 灰色の冬が過ぎて春が来た。
 そして本当に政変が起きてしまった・・・・・・。 
 エルバ島に島流しになったナポレオンが親衛隊とともに島を脱出して、兵を集め、あっという間に政権を奪取したのである。
「明日にもフォンテンブロー宮殿入り」という記事を新聞で読んだルスタムは深夜になって一人で店を出ようとした。後ろから妻の声がした。
「行ってしまうの? 幸せな市民より奴隷がいいの。今度こそ死ぬわよ!」
「本当のことを言おう。私は幸福って何かわからない。幸福は心の内側から生まれるものらしいね。でも奴隷の心は空っぽなんだ。幸福とかいう代物は私にはやっぱり無理だ」
 ナイル河のような大きくて深い沈黙が二人の間を静かに流れた。対岸は見えないのに大声で叫ぶ恋人たちのように沈黙の中を激情が飛び交っていた。
妻が言った。
「さようなら。早く行って! 私は皇帝にはかなわないわ。でも貴方が死んだら私が不幸になることはだけはわかってね。生き残ってあなたの気が済んだら戻ってくるのよ。約束してね。そして私を必ず幸せにするのよ。そうすればあなたの幸せが何かわかる日が絶対に来るから!」
 プラチナ色の三日月が一本道を照らしていた。ルスタムは泣きながら夜道を全力で走った。理解できない複雑な思いを断ち切ろうと。その思いが「愛」という代物であることを知るのはだいぶ後のことであるが。
 フォンテンブロー宮殿の城門で衛兵に皇帝への取次ぎを願うと、なにがルスタム・ラザだ。ただのロマのくせに、この野郎! と門前払いを食らった。とぼとぼと周辺を歩き回っていると、ルスタムさんどうしたんですかこんなところで! と声がかかった。
 顔見知りのメルカンティ(従軍商人)のマルクである。事情を話すと幌馬車の中に隠れるように言われ、宮殿の中に入ることができた。宮殿内を探し回るとかつての部下、マムルーク・アリに会うことができた。ルスタムはアリの下僕になろうとした。アリがおそるおそるナポレオンに許可を求めると、「ルスタムは裏切り者だ」と言いつつ、好きにしろとあっさり答えた。細かいことに気を回さないのは皇帝の独特の性質である。
 6月になると皇帝は大軍を率いて北に向けて出発した。英国プロイセン連合軍を撃破するためである。ルスタムはメルカンティの馬車に便乗して軍を追いかけた。ようやくベルギー国境の町、シャルルロアに着いたときにフランス軍敗北の情報が入ってきた。
 ナポレオンは軍司令官として62回戦い、60回勝ったと言われている。そして最後の敗北がワーテルローの戦いである。
ルスタムたちは敗残兵の群れに銃を突きつけられて馬車を奪われた。
「重傷者を運ぶための馬車が必要だ。借りるぞ!」
しかたなく徒歩で命からがらパリに引き返した。