レストラン
「お食事のご提出が遅くなり申し訳ございません」
男は恭しく言って、私たちにサーヴした。
「では、失礼します。ごゆっくりどうぞ」
そう言って男は立ち去った。私はその男の行く姿をつい目で追ったが、その背中姿を見て、彼があの麵類を啜っていた男だと分かった。
なにはともあれ、と思いテーブルに目を戻すと、妻はあの男のことを見ていた。
「すっ──ごいイケメンね~」と目線を男に向けてながら言った。「なんでこんなとこいんだろ」
「さあ、案外大学生とかじゃないか」何はともあれ飯だと思い、「じゃあ皆」と手を合わせて「もうパパはお腹ペコペコだ。早く食べてしまおう」と言った。
そして皆で「いただきます」と言って、私は箸を手に取ってから気づいた。
──餃子に湯気が立っていない。いや餃子だけではない。白米も冷めていて、付け合わせできたお味噌汁も、お椀を触ってみたら温(ぬる)かった。しかもそれは私の注文だけではなかった。妻のカルボナーラも生温かく、パスタが乾燥しかかっていた。娘のお子様セットも冷えていて、しかも娘がハンバーグの中を切ると、その中が生焼けであった。
「なんだこれは!」
私は思わず怒鳴ってしまった。
「ねえ! ちょっと!」と妻が私をなだめようとしたが、私の怒りは収まらなかった。
「いや違う。お前の言わんとしてることはわかる。いや、私のはいい。お前のパスタも冷えていたって別に構わない。だがな、子どもに出すハンバーグが生焼けなのは違うだろ!」
「ステーキだって中──」
「ステーキがレアでもいいのはその中に雑菌が入らないからだ! だから外側を焼くだけで問題ないんだ! だがな、ひき肉は違うんだぞ! ひき肉って肉をミンチにして混ぜて作られてるんだぞ! だから筋肉の内と外がごっちゃになるんだ! だから絶対に中まで焼かないといけないんだ! 食中毒になるかもしれないからな! ──おい!」
と言って私はウェイターを呼んだ。しかし、店内は騒々しく、私の声が通ったのかどうかも定かではなかった。だから私はもう一度叫んだ。
「おい! 聞こえてんのか!」
すると店内には束の間の静寂が出来た。それに一瞬虚を突かれたが、私の中には怒りだけではなく、料理人としてのプライドと正義感すら燃え立っていたのだった。
そして猫背のウェイターが「はい」と元気なく言ってこちらに来ようとした時、黒いシャツを着た男が腕を出して静止し、「大丈夫、俺が応対する」と言ってこちらにやって来た。
「はい、どうされましたか」
──この男は話ができる。そうした判断は私の中に残っていた。一度怒りを口から長く深く吐き出して、それから言った。
「シェフを呼んできてくれないか?」
「申し訳ございませんが、現在シェフは一人のみとなっております。恐れ入りますが、私が代わってご対応させていただきます」
そう言われて私はナイフとフォークとで娘の前にあるハンバーグを開いて、中をウェイターに見せた。ウェイターは私の肩越しに覗き込み、それから下がった。
それから私は文句を言おうとした。だが娘の付け合わせのポテトサラダが目に入ってきた。むしゃくしゃしていたこともお腹が空いていたこともあって、如何にこの料理がひどいのか、吟味した上で詰ろうと思い、フォークの背にポテトサラダを乗せて口に入れた──ら咽せた。
「なんだこれは!」思わず叫んでしまった。「塩の振りすぎだ! それから……砂糖も入れてるのか! しかも、まさか水で薄めてるのか⁉ シャバシャバしてるじゃないか! 何をどうしたらこんなひどい料理を出せるんだ!」
そしてまさかと思い妻のカルボナーラも食べてみると、パスタは茹ですぎでのびており、ソースは濃すぎて食べられたものではなかった。それから私の餃子も中身を分解してみると、中のタネが半煮えだった。
「信じられん! 何がどうしたらこんな雑な料理を出せるんだ! ──いいや、君に言っても無駄だとは思うが……もういい! 出るぞお前たち!」
「誠に申し訳ございません…」
と男は私たちに深々と頭を下げるのだった。
「お前が謝ったところでどうしようもない! こんなひどい店に来たのは始めてだ!」
「ええ、仰る通りで」
「しかも私たちの料理は冷めていたぞ! どうなってるんだまったく!」
「はい、本当に申し訳ございません」
私たちは男についていくままにレジへ向かった。妻と娘には先に出させ、私はまだ収まらない義憤を彼に伝えたのだった。
「あれを料理と呼ぶのかここでは…」
「ええ、本当に申し訳ございません。ですからお代は──」
「いいや払うさ! 出されたものは食うかそうでなければ払うさ! しかしな、シェフに伝えておいてくれ。こんなひどいものを出しておいてよく看板を出せるなと! いいや、シェフですらないさ。ポテトサラダの一つもまともに作れないようじゃ、この店も長くない。君はどこかのホテルかレストランで働いていたんだろう? 悪くは言わないさ。今のうちに転職するべきだ」
男は私の言うことを静かに聞いていたが、私がそう言い終えると、しみじみとこう言った。
「ええ、本当にお客様の仰る通りだと思います」
「なんだと?」
「実はここは私の父の店なんです。ただ、私が何を言っても味を変えないので、本場の味を知ろうと都内のフレンチレストランで修行してきたんです。私もこ若輩者ながらシェフをしていたんですが、それにしても父は頑固で、そのくせに味覚音痴は凄くて──」
そう彼が話している最中、レジの後ろのキッチンから男が出てきた。痩躯で不精髭、頭には白いタオルを巻き、まるでラーメン屋の店長でもしていそうな、中年の男だった。とすると、これがシェフかと思い、私は改めて言おうとしたら、シェフが先に口を出した。
「お客さん。何か不満かい?」
「ちょっとお父さん…! 今は下がっててください」
私はその男の傲慢な態度と、それをなんとかしようとするウェイターとを見て、落ち着きかけていた怒りが再燃した。
「不満だと? 不満だらけに決まってるだろう! さきほどあんたの息子さんと話させてもらったがね、あんたの作る料理はなんだ!」
だが痩躯の男はまるで悪びれる様子もなく、「うちはこれでやらせてもらってますんで」と言って、「ほかに何か?」
──私たちがこうして話している間に、店内は和気藹々としだしていた。私の耳にはその陽気な声や笑い声が聞こえていて、それが何がなしに私の怒りを逆撫でるのだった。
「ほかに何かだと? あんな提供するのも遅くてまともにハンバーグも作れず、パスタも満足に茹でられない! 米は冷めて味付けもなってない! お前それでも料理人か!」
しかし男はまるで動じずにこう言った。
「文句があるならよそ行ってどうぞ。うちはこれで三十年やらしてもらってるんでね」
「おい親父!」とウェイターの男は声を荒げた。だが、
「お前も文句言う暇があるならさっさと仕事するかフランスだかに行っちまえよ」
と言ってキッチンへ戻っていった。
ウェイターの男には呆れたような悲しいような表情が見えたが、私はそれどころではなかった。財布から札束を乱雑に抜き出して「釣りはいらん!」と台に叩き付け、レストランを後にした。
妻と娘は車の前で待っていた。
「なに喧嘩?」



 

 
    