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京都七景【第十九章】

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 自分は女性の地位向上のために闘うことを生涯の目的とすることを。そして男なんかに頼らなくてもちゃんと生きていける人生を歩むことを。
 そう決心すると、今度は次に何をすべきか、よく考えてみた。
 そうだ、アルノー夫人は女性だとはいっても、その意見の書き手は作者ロマン・ロランである。ロマン・ロランは男性である。いかに大作家とはいえ、完全な女性的立場からの意見というわけにはいかない。そこに男性の目を通した女性像が含まれていることは、どうしても否めないだろう。ならば、女性の書いた女性の地位向上のための本は何かないだろうか。探してみると、行きつけの書店の文庫の棚にすぐ見つかった。

『「第二の性」シモーヌ・ド・ボーヴォワール全5巻、新潮文庫(生島遼一訳)』だ。
 早速全巻を買って、勢いこんで読んでみた。ところが、どうしても小説を読む様には頭に入ってこない。やはり、高校生ではわからない概念や用語が多すぎて歯が立たないのだ。それでも、フェミニズムの名著だと知ったからには、読まないわけにはいかないと思い、分かりそうな部分だけ選んで読むことにして、残りは大学に進んで、もう少し関連知識を増やしてから完読することにした。
 現時点で読むことができたのは、『(女性の)生物学的条件』、『(女性と男性の)歴史』、それと『女はどう育てられるか』の章だったが、それだけでも、今の年齢には十分すぎるくらい有益だった。その読書の中で千草さんが最終的に理解したことは、意外に単純、明快な事実だった。

 一、男女両性には生物学的差異以外の差異はない。
 二、人は女に生まれるのではない。女になるのだ。そうして男中心の文明全体が女と呼ばれるものを作り上げているのだ。

 千草さんは、この二つのことから、自分のこれまでの決心をいよいよ固くした。その硬い決心を持って、アルノー夫人の意見の中で気になっている一節、『男には魂が一つしかないが、女にはいくつもの魂がある』の意味をどうしても解明したいと思った。いったいロマン・ロランはこのフレーズをどんな意味を込めて使ったのだろうか?
 千草さんは、そのヒントが、もう一つの大作『魅せられたる魂』にあるのではないかということに気がついた。再び、行きつけの書店に行き、『魅せられたる魂』(全10巻 岩波文庫 宮本正清訳)の第一巻の『序』にざっと目を通すと、おおよそこんなことが書いてあった。

〈この作品の主人公アンネット・リヴィエールは、社会の偏見と道連れたる男性の悪意に反抗して、独立の生活に向かって困難な道を切り開かなければならなかった女性世代の前衛に属している。彼女たちは、後に、みごとな勝利を収めることになるが、アンネットのように貧しく、孤独で、自由な母性の危険をあえて冒そうとした女性たちには、とりわけつらい闘いだった〉

 千草さんは、これこそ自分が読みたかった本ではないかと直感し、早速全巻を購入して読み始めると、その面白さと深刻さに、もはや本を下に置くことができなくなった。
 まず、冒頭、父親の死で、それまで平穏で裕福だった主人公アンネットの生活が一変する。実は父親には別宅があり、そこにシルヴィという異母妹がいた。父の隠された生活を知って大きな衝撃を受けるアンネット。その後父が亡くなり、アンネットとシルヴィは一緒に暮らすことになるが、異なる環境に育った二人には喧嘩が絶えない。その二人を中心に、物語は波乱万丈な展開を見せる。
 世の中の女性への偏見や不平等を、知性や強固な意思によって乗り越えようとする理性的なアンネットと女性らしさを武器に現実的な生き方でビジネスチャンスをつかもうとするシルヴィ。次々と降りかかる女の難題に二人はどう対処して、女の自由や権利を闘い取って行くのか(たぶん、その難題ごとに女は立場の異なる魂を必要とするという含意があるのだろう)。その闘いはこれからも延々と続く、らしい、というのが千草さんの要約だ。
 そういうストーリーに引き込まれて、取るものもとりあえず、熱心に、われを忘れて読んでいくうちに、千草さんはくつかの壁に突き当たった。

 第一の壁……物語の背景である戦間期のヨーロッパの政治情勢、特にフランスとドイツの政治情勢に対する無知。                      
 第二の壁……作者の政治的意見や思想に対する無知。               
 第三の壁……作者が時々垣間見せる、どこか人を寄せ付けない即物的で非情な表現(とくに醜い女性への冷淡さ)への違和感。本当にロマン・ロランはフェミニストと言えるのか。つまり、ロマン・ロランとフェミニズムの関係について、もっと詳しく知りたい。 
                        
 こうした思いが、いよいよ募って来たとき、ひとりでにロマン・ロラン研究所のことが思い出された。                                
 そうだ、ロマン・ロラン研究所があるじゃないか。しかもその研究所長こそ『魅せられたる魂』の翻訳者本人ではないか。よしこれから出かけて行って、礼儀を尽くせば、本人だもの、疑問点に答えてもらえるにちがいない。研究所と名前がついている以上、ロマン・ロランの著作の質問者に門前払いということはよもやあるまい。せっかくこんな近くに住ん
でいて地の利を生かさない手はない。そうだ、そうだ。ならば出かけよう。
 そういうわけで、千草さんはロマン・ロラン研究所の門を叩いた(実際はベルを押した)のだが返事がなかった。さらに何回か押してはみたがそれでも返事はない。仕方なくこの次にしようかと向き直ったとき、俺の視線に出くわしたということだ。それから後のことは、みんな先刻ご承知だから、これからいよいよ問題の核心に入ろう。
 さて、ひとしきり話を終えると俺は千草さんを長く引き止めていたことに気がついた。

「それじゃ、時刻も遅いので今日はこれまでにしときましょう。今後何かお役に立てることがあるかもしれない。そのときは、いつでも相談に乗りますから、なんでも言ってください」とテーブルの勘定書を取って立ち上がろうとした、そのときだった。千草さんの形のよい口から爆弾発言が飛び出した。

「あのな、先生。変なこと言うようやけど、うちのこと好きにならんといてな。おたの申します」

「えっ……?」

 俺はその姿勢で凍りついたまま、返す言葉を失った。
 こういう場合は、とにかくうろたえず冷静沈着に切り抜けるのが肝要だ。そう思って、俺は再び椅子にゆっくり腰をおろすと、千草さんの顔を見つめながら、

「ひ、ひとまず、コ、コ、コーヒーでも、もう一杯飲んで、気持ちを落ち着つけようか」と声をかけ、近くにいたウエイターを呼んで、

「コーヒーを二つ追加してください」と注文した。
 コーヒーが来て、飲み終わるまで、俺たち二人は無言のままだった。沈黙を破ったのは俺の方からだった。まるで薄氷でも渡るように恐々(こわごわ)と質問をした。

「あの、何か誤解があるのかもしれないけど、俺、千草さんに何か失礼なことでも言いましたか? 例えば、好きだとか、つきあって欲しいとか?」

「ううん、そんなことあらへん」
作品名:京都七景【第十九章】 作家名:折口学