京都七景【第十九章】
この件で母親は千草さんに心からの感謝をしている様子だ。そしてここからが母親の期待の核心になる。
母親自身の人生は、結果として後悔の少ないものになったが、それはあくまで偶然が作用したことによる。自らも芸者の母親を持ち、しかも父親については何も知らされず、また会ったこともない。祖母(つまり母親の母親)からは、有無を言わさず舞妓になれと言われ、生きるためには母の言葉に従うよりほかに選ぶ道がなかった。
『だから、娘には、母親の体験したことには一切無関係に、本当に自分の生きたい道を歩んでもらいたい。そうして、今学業に興味が出ているなら、それをさらに深めて、人生の選択肢の幅をできるだけ拡げ、その中から自分にもっとも相応しいと思えるものを選んでほしい。それこそが自分の願いである。そのために親のしてやれることは、本人の条件をできる限り整えることだと思っている。だから、先生(俺のこと)には、この気持ちを汲んでもらって、千草の進路選択の可能性が広がるよう、その能力を(もちろん、能力があればの話だが)高めてやってほしい。
とにかく自分が原因で娘の進路を固定したり狭めたりすることは絶対に避けたい。全ては本人次第のつもりでいる。もし平凡な人生を送りたいというなら、それも結構。もっと資格や能力を身につけ人前に出て、社会に役立つ仕事をしたいのならそれもいい。また、私と同じ人生を歩みたいというのなら、私は反対するが、それが自分を生かせるただ一つの道と信じて悔いないなら、それもまた仕方ない。幸い、今のところ、娘は、先生を信頼して、先生に認めてもらえるようにと頑張っている。
先生を優れた家庭教師と見込んで、私が見ることの叶わなかったいろいろな世界を千草に見せて、娘の人間としての視野を広げてやってほしい。芸妓として狭い世界で生きてきた自分には、どうしたら千草が自分に相応しい望みを持ち、それを叶えることができるようになれるか、及びもつかない。だから、どうかその方法や筋道を先生の見地から助言してやってほしい』と、こう言うんだ。
これには、俺もびっくりした。俺のこの家の第一印象は、裕福で家族仲の良い、円満な家庭というものだった。あとから思えば、母と娘、母の妹、家政婦さんの4人暮らしで、父親と顔を会わせたこともないのが、少し不思議といえば不思議だったが、近年、両親の揃っている家庭でさえ、父親が会社員なら、深夜に帰るか単身赴任で不在なのが、日本の常識となっているので、俺も疑いの持ちようがなく、その円満と思える家族の裏に、まさかこのような複雑な事情が隠れているとは夢にも思わなかった。
このことを聞いてからというもの、俺はこの家族の生き方にますます感心と共感を覚え、『自分にできることなら何でも力になりたい』と母親に告げた。
それからの俺は、自分で言うのもなんだが、ますます家庭教師の仕事に、さらなる熱意を持って努めるようになった。それは、千草さんに対する母親の思いやりや千草さんの素直な向上心に応じてのことではあるが、俺自身の個人的感情もそのことに大きく作用したのも確かだった。
みんなも、薄々どころか、もはや明白に察していると思うが、俺は、初めて会ったときから、このおおらかで、きっぷのいい、しかも、愛嬌があってチャーミングな一女子高生に心を奪われていたのだ。
とはいえ、俺だって、自制心もあれば常識もある。していいことと悪いことの区別ぐらいはわかっているつもりだ。だから自分の立場を利用して、恋愛を有利に運ぼうなどと考えたことは誓ってない。ただし、自然にそうなることについてはこの限りではない。自然はいつでも強い。どんなに自分の感情を偽っても抑えても、その感情を押し殺すことはできない。俺は、ひとまず、心の葛藤の解決を時間に任せることにして、千草さんの実力の向上や視野の拡大に努めることにした。
とはいえ、学力をつけるには自分の経験が役立ちはするものの、視野を広げるにはどうしたらいいのかがわからない。人はよく、『井の中の蛙、大海を知らず』と言って、旅を勧めてくる。なるほど、新しい場所で新しい人と新しい生活習慣に出会い、それまでの自分の生き方と比べて、驚いたり反発したり学んだりして反省するのは、確かに視野を広げることにつながるだろう。
俺もよく「インドに行くといい、ガラリと世界観が変わるぜ」と言われたものだ。だからと言って、すぐ、今の生活をなげうってインドに出かけるわけにも行かなかろう。もちろん、そうする人は必ずいるだろう。だがそれは、きっと差し迫った事情を抱えている人にちがいない。俺は、恥ずかしながら、そんなに差し迫ってはいない。ならば、どうすればいいか?
昔そう言われたときに自分がどうしたのか、俺はようやく思い出すことができた。
「そうだ。あのとき、堀田善衛の『インドで考えたこと』を読んだんじゃなかったか。そうそう、それは旅そのものとはいえないまでも、ずいぶん為になったことを覚えている。そうだ、あのやり方でやってみよう」
というのは、なんのことはない。世にある名著を、好きな分野から始めて数多く読み、著者のした経験を、そのままとは言えないにせよ、二次的に経験して、自分の視野を広げるという方法だ。これなら俺たち誰もがすでにしてきた方法じゃないか。
そう了解して、俺は、ひとまず、岩波新書『文学入門』にある付録、世界近代小説50選リストをコピーして千草さんに渡し、この中で興味を引かれた小説があれば、どれでもいいから読んでみたらどうか。決して無理強いはしないが、どれも名作と言われるもので、読めばきっと心に残る何かがあると思う。小説にしたのは、とっつきやすいし、読みやすいからだ。世界文学を勧めるのも、当然、ワールドワイドな視野を手に入れるためだな。決して日本文学を軽んじたわけじゃない。日本文学はそのあとでじっくり読めばいい。
実は、ある種の本は読む時期というもの持っていて、その時期を外すと後悔することがある。例えば、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』という本だ。これを、人生の終わりに読むのは、ちと酷すぎる。やはり主人公と同じ悩みを悩む年頃こそが適齢期だろう。そのうえ世界文学の名作には長編が多いから、若くてエネルギーが有り余っていて柔軟性のあるうちに読むことをお勧めする。読書は、人間の最も大切な趣味の一つだから、身につくといいね。などと、もごもご言いながらコピーを渡し、あとは千草さんの自由意志に任せることにした。それから、およそ2年が経つ。
その間に、千草さんはどうやら、リストの中の小説に興味を持ったらしく、時々会話の端々に本を読んだ形跡が聞いて取れるようになった。もちろん、何を読んだとか、次は何を読めとか言うことは、お互い暗黙の了解で言わないようにしているのだが、時々、ブロンテ姉妹には他にどんな作品があるのか、とか、ジェイン・オースティンはどうして結婚しなかったのか、などと聞かれることがあると、なるほどこの頃はイギリスの作品を読んでいるのだなということが想像できた。
作品名:京都七景【第十九章】 作家名:折口学