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京都七景【第十九章】

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 野上いわく、宮本正清氏はフランス文学者で、『ジャン・クリストフ』と並ぶ大作『魅せられたる魂』の翻訳者である。しかも、みすず書房版ロマン・ロラン全集のほぼ半分の翻訳を手がけているから、まさにロマン・ロランの専門家と言っていい。今日まで長く京都に在住し、大阪市立大教授、京都精華短大教授並びに同学長を歴任し、またロマン・ロラン研究所を主宰している。
 そんな立ち話を門前でしているうちに、突然、キキキという音に合わせて、数寄屋門脇の潜戸が開いた。中から、茶色い羽二重の着流しを着た、背の高い、かくしゃくたる老人が、小さな白い洋犬を抱いて姿を現し、一瞬。我々に、不審の眼差しを投げたかと思うと、すぐにすたすたと散歩に出かけてしまった。

「なあ、もしかして、今のが正清氏か?」と俺が聞くと、

「略歴には確か1898年の生まれと出ていたから、ちょうどあのくらいの歳格好だろうな。が、しかし、いま一つ決め手には欠ける。更なる情報が必要だ。何かないか、何かないか」そう自問しながら、野上は腕を組んであたりをうろうろ見回している。
 そんなところに情報があるものか、と危うく声に出しそうになったが、突然、街というものを侮ってはいけない、という言葉が浮かんできた。街とは、至る所で、いくつもの歴史の古層が混ざり合い、積み重なり合って現在に露出している場所を言うのではないか。見る者が見ればどこに有望な情報があるかを見つけることさえできる。実際に、俺はそのことでどれほど街の恩恵を受けたかしれない。よし、ここは慎んで、情報を探すべきだ、とそう決心したとき、野上が声を上げた。

「おい、ここの町内掲示板のポスターに、正清氏の名前が出てるぞ」

「どれどれ?」と俺が覗いてみると、確かに手作りのポスターが貼ってある。横長の画用紙に横書き三段で、こんなことが書いてある。

 釣鐘山の自然を守れ!
 銀閣寺周辺の開発に反対する
 釣鐘山の環境を守る会 発起人 …、宮本正清、…、…、

「おお、さすがはロマン・ロランの研究者。社会正義を求めて闘う文学者魂まで引き継いでいるじゃないか。立派なものだ」と野上は、ひとり感心している。俺も、もちろん感心はしたが、それより釣鐘山がどこにあるのか気になった。
 それ以上の情報は、残念ながら手に入らず、俺たちは大銀食堂へ行って昼食を食べ、そのあと、すぐに別れることになった。というのは、食事中に、俺が、その日の午後4時から家庭教師のアルバイトがあったことを思い出し、焦ったからだ。これから至急、下宿に戻って支度をし、哲学の道を、もう一方の端、つまり若王子町まで行かなければならない。自転車に乗れば楽勝だが、こういう時に限って運悪くパンクしている。今から急ぎ歩いて、なんとしても間に合わせるほかはない。場合によっては走ることも辞さない覚悟だった。  
 どうしてもこの仕事だけは、信用を失いたくなかったんだ。
 みんな、どうして俺が信用を失いたくなかったのか聞きたいだろうね? じゃあ、そろそろこのあたりで種明かしをしておこうか。
 実は、この仕事、俺にとってはまたとないほど好条件なんだ。しかも、何を隠そう、この家の生徒こそ、蹴上で二人連れの跡を追いかけたときに南禅寺で偶然出会ったという、あの女子高生なのだ。彼女は、はきはきとして性格がよく、学習意欲も向上心も申し分がない。そのうえ家族は俺を「先生、先生」と言って、信用もし、尊敬もしてくれる。
 折々は、夕飯までご馳走して、それがまた手作りの京料理だったりもする。秋には、旬の松茸の土瓶蒸しまで出してくれた。その美味しいこと。それもそのはず、母親が、自分の妹と二人で先斗町に料理店を出していて、それが人気店ときているのだから。
 とにかく、至れり尽くせりなうえに、なにくれとなく気遣ってくれるので、俺が家庭教師に身を入れるのにこれ以上好適な家庭は、見つけるのが困難なくらいだ。まさに理想の環境というやつだな。かくなるがゆえに、俺は本人や家族の期待を裏切ることは何一つしたくないと思っている。
 では、ここで言う家族の(とくに母親の)期待とは、どんなものなのか。それについても簡単に説明させてもらうことにしよう。ただし立ち入った内容になるので、どうか今後決して口外しないよう、よろしくお願いする。
 それは、俺が教師として徐々に信頼されてきた頃のことだ。ある夕方、俺は母親から別の部屋に呼ばれて、こんな風なことを言われた。
 娘が、堀井先生は教え方がとてもうまいと言っている。説明は簡潔にして要領を得ているし、独特のユーモアで笑わせながら大事なことを強く印象づけてくれるから、すらすらと頭に入ってきて忘れようにも忘れられない。学力が前よりついてきた感じがするし、事実、成績も上がってきた、などとうれしそうに話している。本当に、わが家に来ていただいて大変ありがたく思っている。これからも引き続き娘を教えてほしい、というのを前置きにして、さらに次のようにつけ加えた。
 では、これからもずっと教えていただけますよね? と、念を押されたので、俺は二つ返事で、もちろんです。こんな恵まれた家庭教師の仕事は又とありません。俺でよろしければ、京都にいる限り、ぜひ続けさせてください、と答えた。それを聞くと、母親は、ほっと安堵の表情になり、それなら、今後の娘の学習や進路の助言をしてくださるときの参考に、恥ずかしながら、わが家の事情を知っておいていただけないだろうか、と切り出したのが、以下の話である。ここからは、事情が複雑になるので、娘さんと言わずに本名の「千草(ちぐさ)」で登場してもらい、俺が簡単にまとめ直して話すことにするよ。

 千草さんの母親は祇園に育ち、芸妓を勤め、その後、実業界の大会社の取締役に見初められて落籍されたそうだ。当然その人には正妻がいた。とはいうものの、母親とは相思相愛の仲だったので、その人の保護と経済的援助を、母親は安心して受けることができた。その上、千草さんという一人娘まで授かり、育て、認知してもらい、現在まで何不自由なく生きてくることもできた。だから、母親の人生に後悔はない。

『そうは言っても、娘という立場を考えればやはり、千草には、誰に気兼ねなく父を父と呼べる、そういう家庭を築いてあげたかった。今のように、世間の目をいちいち気にして暮らさねばならない生活をさせて本当にすまないと思っている。
 だからこそ千草には自分と同じ轍を踏んでもらいたくない。だから、これまでの母親の来歴については、正確に知っておいてもらうほうが良いと考え、自分は、娘が物心ついたときから折に触れて、自分の半生をできるだけ事実そのままに語るよう心がけてきた。それは、今後、娘が人の噂に惑わされて、初めて聞かされる種々の事柄にショックを受けたり、また、父親といわれる人の愛情と立場を誤解したりせぬようにするためだ。
 そのかいあってか、近頃は、娘も17歳という気持ちの動揺の激しい思春期に差しかかっているにもかかわらず、あるいは、差しかかっているからこそかもしれないが、自分の話に冷静に耳を傾けて、その立場や生き方に、娘なりの共感や理解をより深く示してくれるようになった』。
作品名:京都七景【第十九章】 作家名:折口学