繰り返す世代
「自分たちは、人間にできないことをさせられるために生まれた」
ということから、
「人間よりも強靭である」
ということを理解する。
だから、ロボットは、
「人間というものに対して、絶対に妥協はしないし、心を許すということはしない」
そもそも、
「ロボットを作った人間」
というのが、当然のことながら、
「人間至上主義」
の考えを持っているのだから、
「ロボットだって同じだ」
といえるだろう。
もちろん、同族と異族ということであれば、
「どちらをひいきするか?」
と言われれば、同族となるのは当たり前。
「ここで、異族のものをひいきにしたり、同族の犠牲の下に助けたりなどする」
ということになれば、
「裏切者」
というレッテルを貼られ、
「お前は人間ではない」
と勝手な決めつけを受けることになる。
同族意識というのは、誰もが、
「当たり前」
という感覚で見ているのかも知れない。
それを、
「本能」
というものではないか?
と感じる。
「同族どうしが生きていく」
というのは、
「裏切りがあってはいけない」
ということで、そこに、信頼関係というものがある。
だから、それを、誰もが、
「当たり前」
と思っているわけで、しかも、
「同族の間に、生殺与奪の権利はない」
という感覚でいることだろう。
他の動物に対しては、なぜか、
「生殺与奪の権利」
というものを有してはいけないとは感じない。
それは、
「肉食だから」
ということで、食する対象になるものに対しては、
「生殺与奪の権利」
など、関係なく、
「しょうがない」
ということで、食するということになるだろう。
だが、人間は同胞であっても、殺しあうということをする。
それは、
「相手を征服する」
ということであったり、
「自分の欲のために人を殺す」
ということをするのだ。
これは、
「生殺与奪の権利」
以前の問題であり、
「自分の私利私欲のために、人を殺す」
というのは、ある意味、
「これも本能ではないか?」
と考えるのだ。
つまりは、
「人を殺す動機としての欲というものは、突き詰めれば、本能ということになるのではないか?」
と考えれば、
「無意識が本能だと考えると、無意識に、つまりは、罪の意識がなく、人を殺す」
ということになるのだろう。
これは、
「実に恐ろしいこと」
ということで、
「殺される方は、たまったものではない」
といえるのだろうが、
「無意識の行動はやむを得ない」
ということになれば、それこそが、
「言い訳になってしまう」
ということで、
「人間は、地球上で一番、狡賢い生物だ」
ということになるであろう。
そんなことは、
「なるべく考えたくない」
と思うようにしているが、なかなか、会社であったり、社会の中にいると、そういう考えたくないと思っていることも、
「当たり前だ」
と感じることで、
「自分の感覚というものが、どんどんマヒしてくるようになっているのを感じる」
と考えるようになるのであった。
だが、
「あまり考えたくない」
と思えば思うほど、考えてしまっている自分がいて、それが無意識であるということで、、余計に、
「あまりいい気分にさせてくれない」
と感じさせるのであった。
もっといえば、
「無意識であることを意識する」
ということと、
「意識しているということを、無意識に感じる」
というのが、どこか似ているようで、
「似て非なるもの」
という、
「ややこしい感覚になる」
ということで、
「なるべく考えたくない」
という思いがそこからきているといえるのであろう。
それを考えると、
「人間の考えが、入り組んでしまう」
ということになると、
「混乱というものがカオスとなり、さらに、ややこしくさせるのではないか?」
と思えば、
「意識しない」
ということと、
「無意識」
というものが違うと考えることが大切だと思うのだった。
だから、
「意識しない」
と考えるよりも、
「意識してもいいが、必要以上に考えることにつながることがまずい」
と思うようになる。
それだけ、普段から余計なことを考えているわけであり、それは、
「無意識な中で、勝手に考えている」
ということになるのだろう。
だから、
「意識しない」
と考えることは、余計に頭をややこしくすると思わせるので、
「どうせ意識するのであれば、意識する中で、できるだけ自分に有利に感じれば、それが一番だ」
と思うようになってきた。
死体発見の朝
頭をそのような考えにしてくれるのが、
「朝の散歩」
のようなものだと思っている。
毎日の日課ということであり、最初は意識していたものも、
「毎日のこと」
ということで、惰性のようになっているが、だからといって、意識してしまうと、
「義務」
であるかのようになり、それでは、
「何の楽しみがあるか?」
ということになるであろう。
そもそも、毎日の日課というものは、
「意識してするものではなく、リズムとして育むものであり、それこそ、
「呼吸をしている」
というような、当たり前の生活だといえるだろう。
だから、逆に、
「日課」
ということにしてしまうと、却って義務感もなくなり、
「充実感」
と
「達成感」
という、ポジティブな考えに至るといってもいいだろう。
そういう感覚で、公園を歩くことになったのだが、最初は、
「まわりに人がいっぱいいるのが、いやだな」
と感じていた。
「できれば一人で歩くことがありがたい」
と思っていたが、それでも、自分のペースを計るという意味で、
「まわりがペースメーカーになってくれる」
というのは、ありがたいことであった。
そのうちに、毎日出会う人とあいさつを交わすようになり、実際に話をするという人も出てきたのだ。
そこから、
「仲間が増えていく」
ということになるのだが、自分が、
「仲間に加えてもらう」
ということもあれば、
「自分から仲間を引き寄せるようにして、仲間が加わる」
ということもあったりした。
後者は、
「今までの自分には、ないことだろうな」
と思っていたが、どうしてどうして、
「人と知り合うのも悪くはない」
と感じるようになったのだ。
さらに、
「自分が人を引き寄せる」
ということは、
「自分の魅力に気づいてくれる」
ということもあるのだが、それ以上に、
「同じ趣味趣向を持っている人が多く、さらにその人たちから、少なからずの感銘を受けている」
ということを証明しているというものだと感じると、
「感無量」
という気持ちになり、
「有頂天な気持ち」
というものにもなるということであった。
その日は、いつもとほぼ変わりないペースで歩いていたが、前を見ると、
「初めて見る人だな」
と感じる人がいた。
その人のことが気になったというのは、
「ここの遊歩道を使う人は、ちゃんとしたスポーツウエアのようなものを
きている人がほとんどで、それでなくとも、ラフな服装くらいはしているものだ」