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後架の蜘蛛

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この数日前、例によって深夜まで起きていた佑月が上厠した折、その蜘蛛が上げっぱなしであった便座の縁を沿って上へと昇り動いていたのであった。——少なくとも、今までに斯様に動きまわる蜘蛛は見たことがなかった為に、彼はそれによる驚きと感動を隠し切れないでいたが、彼の知る処(周知でもあろうが)後架に得物なぞそう現れるはずもない故に、かの蜘蛛が昇らんとするところ、むろん佑月は邪魔立てせず我が子を見守るような気持ちでいたのだったが、何度も汚水の中へと落ちかける衰弱ぶりに、いよいよ彼はその蜘蛛をトイレットペーパーの芯で持ち上げ、トイレタンクの上に置いてやっていたのだ。
その後——用を足した後の、影の努力は目に入れてはいなかったが、その蜘蛛の骸を見るに、あの晩後架の上へと昇りきり、更に巣を張ることも成功したのだろう。残喘の力を振り絞って、といったものも垣間見えた。——糸に吊るされた、蜘蛛の躰を支える二本の脚は、その先端は中心部分に引っかかっているのを見るに、恐らく最後の力を振り絞って巣を張り切り、それで安心した所事切れたのだろうと予測できよう。
が、その遺骸を見やると、何が成しに、その蜘蛛が感じた達成感と、その後の結末についてがひどく虚しく思えた。
蜘蛛はきっと、昇り切り、そして巣を張り切った後、ひどい安堵感を覚えたに違いない。そして、安堵の中、絶命したのだろう。その蜘蛛は幸せであったに違いない。これで大丈夫だ、と、安心し切った中で死んでいったのだろうから。斯様なことを佑月は思った。だが、その蜘蛛の死因は餓死であったに違いなく、その安堵の中で、その蜘蛛は餓えの中での幸福を味わったのだと思うと、これまた哀しく、虚しく感ぜられたのである。
佑月の手助けも、あの愛おしさも、全てが無に帰してしまったのだ。死とは剥奪なのだと思った。
放尿を終え、後架の扉を開けると、扉によって隔てられていたリビングからの空気が一気に押し流れてきた。
「もし、お前がここから出る選択肢を取っていれば、生き残れたかもなあ」
なんとはなしに独りごちていた。
洗面台の手前は三メートルもない通路になっている。そこから左に曲がるとすぐ玄関となり、更にその左は佑月の部屋がある。洗面所の真横は仏間となっており、毎朝祖母が勤行をあげる。洗面所の正面はリビング兼キッチンとなっており、梅子が往時買い、そのまま捨てる形で置いていった茶色のアンティーク風な食器棚や、当時の最新型冷蔵庫に続き、既存の水場とキッチンが右側の壁を隠すように横続きに併設されている。リビングの中央辺にカウンター風な白い机が置かれており、それも例によって梅子が置いていった物であるが、それによりキッチンから供する際は後ろを振り向くだけで済むようにはなった。キッチンの横の大窓からベランダに出られ、年百年中臭うこの虚室においては、そこが一年中開けっ放しになるのも仕様がない。——洗面所から、後架からリビングまでは、広く開放的な、風の通り道となっているのである。
キッチンは七畳半程であるが、縦長で、左側にはもう一部屋、六畳部屋が隣接し、そこにあった襖戸を取り払い一つのリビングとして機能させており、そこは祖母の美恵の寝室も兼ねていた。剝がればかりのソファも、専用の機械で地デジ対応さしている時代錯誤の灰色のブラウン管テレビも、敷きっ放しの煎餅布団も、その横に——窓付近に位置するこげ茶色の座卓も、年百年中そのままで——いや、それに付け加え、この空間に残飯や生ゴミ、食べカスを見ない日なぞ一日とてなかったような気がした。
故に、かの黒い虫が頻繁に点在し、美恵はよくキッチンに果物を置くのであるが、夜な夜な、それらの皮を虫たちが食べている事なぞ知る由もないだろう。
そして、聞くに、蜘蛛は黒い虫の天敵らしいが、それも今や後架の天井にて、自身の作った巣に宙づりになって死んでしまっている。
キッチン周りの生ごみは薄いビニール袋に入れて良しとしている。というより、この家に密閉型のごみ箱は佑月の部屋にある小さなものしか存在せず、美恵はビニール袋にそのままゴミを入れ、それをカーテンのレールにひっかけているが為に、年百年中この家は饐えた生ゴミの臭いが漂う。これが夏の頃にでもなれば蠅が集り、机の上は黒い虫が昨晩の食べカスに集い、床に落ちた残飯は——しかしこれはいつの間にかなくなっているのであるが、その由は恐らく虫共がさらってしまっている他ないだろう。——視力も聴力も脳力も衰えた美恵はこれでいて綺麗好きを謳っているのだから、佑月が部屋に籠りっぱなしになるもの無理はなかろう。
佑月が件の蜘蛛が死んでいるのを見たとき、その脳裏には何とはなしに祖母の事が思い浮かんでいた。——そこが世界の全てを信じて疑わぬ愚鈍さを、件の蜘蛛にも祖母にも見たのである。
しかし祖母と違うのは、その蜘蛛自身生きようと藻掻いたことであろう。五十半ばを過ぎたあたりから新しいことを何か始めるよう、孫である佑月や娘(佑月の母)に勧められるも、「あと十年若かったらなあ」と云うのが口癖になった祖母とは違い、件の蜘蛛は、生きようと、己よりも遥かに巨大な生物が突如住処に入ってこようと、なりふり構わず、藻掻き、見事登頂したのみならず、更には巣まで張ってのけたのである。それを見て、もしや祖母も今際の際にて己の成してきた人生の道を振り返り、それに深く酷い後悔の涙を浮かべるやも知れぬと不図思うも、しかしあの蜘蛛とは違い、我ら人間に最期の力を振り絞ってなぞという気力体力は残されておらぬことだろうから、恐らく病院のベッドの上で、ただ只管に今世への別れを惜しむ風前となる情景が容易く佑月の脳裏に浮かんだ。——少なくとも、この狭い集合団地の一室に無暗に何十年も住み続け、帰らぬ人となった佑月の祖父である元旦那の幻影を見続けながら、来世はああするこうするなぞと虚しい酔余の戯言を駄弁る祖母には、どうでも残喘の際に己の人生を思い直す姿が想像つかぬのであった。
——浦尻家は四代と続く宗教一家で、前世だの来世だのを根強く信じている祖母は「来世で頑張る」と今世を只管に堕落乃至休憩と目して——それを建前に、己の自堕落を正当化しているのである。
かてて加えて、祖母は実父を若くして亡くしており、その後義父に酷く虐待を受けた過去があるのだが、その心傷は五十余年経った今でも癒えておらぬものらしく、そこまでは佑月も同情するのだが、酒を呷れば当時の出来事をさも昨夜の出来事かのように縷々綿々と語り散らし、剰えその言動行動は童が如くの酷い所作となり、平気で床に落ちた飯を拾い上げ食べる、佑月が食べている物を手で奪う、面倒だからと皿を使わず己の手を皿代わりにする、終いに酒で呂律の回らぬ舌で、佑月には到底理解できぬ言——それはどうにも過去の未練や屈辱の烈火であるが——を発する奇行をしでかすのである。
作品名:後架の蜘蛛 作家名:茂野柿