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後架の蜘蛛

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佑月もその一家を十把一絡げに毛嫌いしていたが、しかし貝原家唯一の男児であった、佑月の四つ下の長男、啓二とだけは何故か仲が良く、それは何かと下の兄弟を欲しがっていた佑月にとり、ちょっとした弟みた存在に思えていたからであった。が、所詮小学校卒業以降は自然と疎遠になる形となる程度で、その数年後——それもどうやら佑月が海外へ行っている間の事であったらしい、バイト先でも学校でも虐められた挙句の果て、かの県営団地より身投げしていた。
その県営のマンションは、これまた往年より、昼夜問わず救急車が鳴り響くので、佑月はその異常性に気づけずにいたものだったが、その啓二の投身にはたと蒙を啓かれる形となると、どうやらその県営団地では投身自殺が往々にして起こっていたらしかった。——と、一寸とぼけてみたが、十五階建ての、七つの棟からなるその県営マンション群が、どうにもこうにも飛び降りに最適でないはずがなかったのだ。であるからして、その啓二も投身を然り、ややもすれば佑月もそうなる運命であるのかも知れぬのだが──。
また、飛び降りに限らず、昨今の少子高齢によれば、そこらに住まう高齢者の孤独死や事故によるものも多発していたようで、救急車のサイレンも最早日常的——週に何度も聞こえてくるのであったから、それがこと深更にでも来ようものなら、眠れる夜も眠れぬ夜と相成ろう。
それも、市営団地の者らの異常性——上階のどこからから聞こえる精神障碍者の奇声、毎夜毎夜聞こえる子供の泣き叫ぶ声と、その子どもを怒鳴りつけるどこかの母親の怒声、階下の中年から老年女性連中の陰口に、ある老女の雄叫び——その老女とは佑月の祖母のことであるが、とあれ斯様に騒音に悩まされる日々が続くのが彼の日常であり、往年からの常識であったのだったから、その心労は計り知れぬものとなっていてもおかしくはなかろう。
かてて加えては、その団地群の向かいに拡がる住宅街である。小学校と団地とは同じ区画、その間に一本の大通りを挟み、住宅街が広がっており、小中学生時分では気づき得なかったのだが、その大通りこそ差別を呈しているかのよう──何か目には見えぬ線が引かれているかのようで、事実団地に住まう佑月も幼馴染であった上階の者も、貝原家の長女も人生が破綻しているような塩梅であるのだが、その向こう側の人間は、当たり前に引かれたレールを登るだけで良いのだろうか、かの同窓会での折では貧富の差を如実に表したかのようであって、その大通りの向こうの出の者共は、或いは優秀な大学に在籍、或いは社長となり、将又或いは佑月が往年憧れたプロ野球選手にまで上り詰めた者もいたのである。そして、彼らは底抜けに優しいのである、全くに憎たらしい程に、人間として完成しているのである。彼らは、自らを恵まれているものと謙遜して、その当たり前の環境と、当たり前の努力によって、当たり前のように幸福を享受していたのである。無論、阿呆の佑月ではその事実には到底気付きようもなかったのだったが、その厚顔の殻が数年後に割れ、己の恥を自覚し始めた頃から、佑月はその格差の残酷さに気づくことになった。
また、ついで彼の神経を削るのは、団地区画に納まる、市営団地の前にあり県営団地の斜向かいにある、彼も往年通っていた小学校である。
佑月が後架へ向かう前、チラリと時計を流し見した限りでは、その針二つが両者共に上を向いていたことは分かっていた。それが証拠に、その団地が近くにある小学校——かつては佑月もその一員でもあった小学校の児童たちの、自由奔放に燥ぎ回る声は騒がしくも一つの楽声となり始めており、そして何かしらの問題が起きたのか、何某君を呼ぶ先生の放送がその団地周辺に響き渡った。──それがまた、佑月のトラウマに触れてくるのである。
(あの音。あの音だ…)
——頭のトチ狂った、縮小版社会主義党総督かのような暴挙を振るったのが、佑月のクラスの担任教諭であった。年は当時三十を迎えたばかりの男で、褐色肌に頬のできものが酷く、それが為某芸人コンビのツッコミの方に酷似していたが、その男の性格は真坂様に打って変わって酷く陰湿で、前掲の通りに、生徒が云う事を聞かねば平成の時代には時代遅れな体罰も執拗にやり得た、所謂キ印であった。また彼は何故か、恐らく彼自身も野球をしていたからだったろう、野球をしていた男子を嫌っていて、佑月もそのうちの一人なのだった。
子どもの無邪気で善悪の判断もつかぬ、ただの面白いがりから、「ガイジ」という言葉が教室で流行り出すと、彼は授業中にも関わらず授業を止め、「今から一分以内にこの言葉を使った者が名乗り出なければ警察に連絡する」と言い出し、そして一分間まるで静寂に包まれると、「じゃあ全員で刑務所行きだね」なぞ言うような類の教師であった。
佑月は家でも学校でもまるで居場所がなく、家にいれば例の騒音や祖母と母の不仲、学校へ行けばこのキ印教師と板挟みになっていて、彼の記憶する限りでは、緊張が解けるような日は一日たりとてなかった。誰かが怒鳴っているか、誰かに怒鳴られているか──小学校が終われば終わるものだと希望を抱いていたが、それは中学に上がっても続き、何ならこれで終わると思っていた地獄は寧ろ中学に上がってからが本番じみたところがあった。──こうした毎日に暴力と洗脳を足して二倍すれば、佑月の中学時代は云い表せられる。
その時代の佑月は何がどうして「俺はクラスの皆から嫌われている」と考えていた。実際、例の不良の幼馴染が唯一の友達同士であったみたいで、また彼は中学に上がり母がどこかで捕まえてきた、蛙が中途半端に接吻されて人間になり損なったような顔の、彼氏なのかペットなのか分からぬ関係の男に、「俺が強くしてやる」との名目で暴力を受けたのだった。彼は自衛隊上りで、その時は幾つかの会社をしていた。それだから佑月は体にいくつかの生傷を作って学校へ行く羽目になったのだったが、それが例の不良と唯一の友達だったからか、どうにもクラスでは喧嘩している証左なのだと思われるようになった──と佑月は思い込んでいた。つまり、何とはなしに嫌われているのではなく、ちゃんとした理由で、つまり不良の仲間であるから嫌われているのだと強く思い込んでいたのだ。──真偽は毛く分からぬが、友達はその不良を除いて誰一人おらず、結句彼は孤独に過ごす羽目になったのだったから、嫌われていようがいまいが関係のない話ではあろう。だが、小学校時分では「こんな辛いのも長い人生のうち一瞬だ」と考えて耐えていた佑月も、この頃になると──何も考えていなかった。小学校で終わると思っていた地獄のような日々が、よもや中学に上がって更にヴァージョンアップするとは思いもよらなかったのである。あれよりも酷い事はなかろうと考えていたのが、まさか地続きでそのまま更に過酷な現実を叩きつけられるとは、考えもよらなかったのである。小学校の卒業式では彼は思わず笑みを浮かべていた。隣の女児からは「泣いてそうなのに」と言われたが、彼はあのキ印担任から解き放たれることが嬉しくて仕方がなかった。──その喜びはぬか喜びとなって、より一層酷い三年間が待ち受けていたのだとは、思いもよらないでいた。
作品名:後架の蜘蛛 作家名:茂野柿