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後架の蜘蛛

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——ベランダの排水溝周りにうち捨てられた吸い殻がそう多くないのは、彼がその中に打っ棄り捨てるか、下の花壇へ投げ落とすかの為にあり、煙草を躙り潰す折に出来た焼け焦げた黒点の数こそ、彼が眠れずに明かした夜の数の証みたものである。もはやその黒点の多さにより一つの黒円が如くになっており、ベランダ床に巨大な煙草の吸殻を押し躙ったかのようにも見える。
佑月はその黒点——黒円をまた一つ大きくしてみせると、吸殻を下の花壇に投げ捨て、それに追う形で痰も一緒に吐き捨てた。
強く長く、肺にこびりついた紫煙の泥のような滓をも一緒に吐き出すかのようにして、息を吐いた。
ヤニが喉に絡みつくまで吸えたことに満足した佑月は室に戻ると、その安堵と共に汗の滲んだ布団の中に潜り込んだ。すると刹那にして、カーテンが閉め切られ出来た暗澹により生じた、胸から肚にかけてほじくり返されるような、漠然とした不安がのさばってくる。それに対抗手段を持たぬ佑月は、その不安に内臓をかき乱されながらも、なんとか必死に寝ようと汗で湿った枕に顔を埋め、何度一緒に寝たか分からぬ不安と共に、底無し泥に身を預けるようにして、睡魔の世界へ逃げるより他なかった。
果然、正午近くに起きたにも関わらず佑月の隈は酷いもので、ついで欠伸は止まらぬものであった。
起きしなの佑月はまずベランダへ——ではなく、簡易灰皿を模した、水を半分入れただけのペットボトルを携えて風呂場へと向かい、扉を閉め切り、風呂場の換気窓を開けたならばこれで煙草が吸うに至れる過程を踏んだのだが、恐らく早暁から祖母がシャワーを浴びたのだろう、彼唯一の至福の時——煙草を吸えるという昂揚により生じた油断から、ドカッと、椅子の水滴の有無を確認せずに腰掛けると、臀部にピシャリと厭な感覚を覚えた。そして刹那にして湧いてきた殺意は、じんわり滲む下着が拡がってゆく感覚と共に、諦観へと切り替わっていった。くそが、と思いながらも、しかし火をつける前で助かった、と背に腹は代えられぬ思いで、洗面所横のタオルを掴み、椅子に敷いた後、これでようやっと喫えると胸をなでおろし、煙草を咥え火をつけた。
市営団地の二階に住まうが為か、以前、昼中にベランダで喫んでいる時、下の庭で水やりをしていた中年女性らに蔑視を手向けられていた。団地に住む人間の年老いた姿とは日常という諦観を繰り返す行為で、そこに見えるのは希望が廃れた若き頃の己のただ無為に年老いた姿だけである。もっとも、そこに悪心が年月によって堆く積もれば、我々人間の身体はそれらを追い出そうとして、結句それが中途半端な形で帰結する。そうしたものは彼らの皺や姿勢、体型から見て取れて、即ちここのある程度年を取った者に中肉中背で眉間の皺とほうれい線がない者はいない。そうした次第で蔑視されるとこれが中々に忌避したくなるもので、それもそうであろう、ここにいる人間の全ては大抵惰性的でありながら悪に近しい場所なのだから、そうした環境が佑月を産みだしたのであり、また人間の目つきを人の心を殺せるようなものに仕立て上げるのだ。壁に耳あり障子に目ありとは、こうした団地育ちの人間の性質を指しており、またここにおける堕落とは、一時は宙に浮くような落下なのではなく、地面に張り付きながらも登れずに滑り落ちることを指す。
佑月はそれに憚って、次に夕餉時を一服タイムにしてみたのであったが、すると今度は上階の住人から「洗濯物干してるのに!」と怒鳴られてしまった仕儀を経ていた。それに佑月は一瞬申し訳なくも思うも、さりとて夏の頃だとは雖も時刻は既に八時を回っていた時分であり、喫煙者なりの配慮も十全に成し得た上での喫煙、しかる後の上階からの文句であったから、(半分は自業自得だ馬鹿めが‼)と肚の中で罵倒し舌打ちをしてやっていた。しかし、やはりどこまでも小心者に仕立て上げられている佑月とは、こうした心の中の罵倒がいざ口の外へと飛び出たことは殆どなく、代わりに行動となって出てくるのみであるが、上階の者はかつて家族ぐるみの仲、顔見知りでもあっただけに手打ち、それから喫煙は室内でのものとしてやっていたのだった。
しかし──また、彼と同居する祖母の美恵は、佑月が幼時の頃よりヘビースモーカーで、佑月の母である梅子や幼時の佑月の忠告にも馬耳東風の態であったのだったが、さてそれが増税の折では、中卒フリーターという彼女に身には重すぎる足かせとなったようで、土台、月十三万円の清掃バイトを二十余年としてきた、それ以外の価値も取り柄もない美恵にとり、煙草と酒とが唯一享受出来得る娯楽という有様であったから、酒か煙草かという二者択一の手前、泣く泣く二十余年と続けた煙草を断ち切らざるを得なくなっていた。──と、ここまではまだ良いが、それから数年が経ち佑月の食指が煙草に指かけると、なんとその佑月の喫煙に難色を示し出し、恰も己は健全者——副流煙を吸わされている被害者だと云わんばかりの、浅ましく賤しい讒言を、パッキンの締りが悪い蛇口から垂れるあの煩わしい水滴のようにぐちぐちと文句を垂れ流すようになったのである。
それ故、佑月をして裏切り者の烙印を捺した後、件らのことも相俟って外で吸うにもやや憚られる思いであった折、腹いせに(とは少し違かろうが)己の部屋で喫ってやった。その煙が仮令佑月の虚室の扉から漏れようと、それが故家全体をヤニ臭くせしめようと、それにより生じた美恵の語彙力もない、知能を振り絞って出した讒言にもどこ吹く風、何食わぬ顔でスパスパと喫んでやっていた佑月は、遂に美恵の方から「吸うなら風呂場か換気扇を付けてキッチンの傍らで吸ってくれ」と泣きつかれたのであった。
それに眉を顰めながらも、爾来、彼が昼の間に煙草を吸いたくば、指呼の間にあるコンビニの喫煙所まで歩いてゆくか、換気扇を回してキッチンで吸うか、風呂場で吸うかの三択に限られてしまい、しかし余程出不精に出来ている佑月をして外に出て行くなぞと云う選択肢は毫もなく、また、キッチンからでは下から吸っている所を見られてしまう故(実際、またぞろ下の花壇で水やりをしていた例の中年女性と目が合った折、目を眇めと首を斜めに向けて嫌悪感を表し、そして声に出さずとも口を動かして、佑月への讒言を呪詛のように唱えていた姿を見ていた)、此度のように風呂場で吸うに帰結せざるを得なく、そしてそれがここ最近の常となってきているのである。
その彼は、昼の間は決まって二本しか吸わない。というのは、五百ミリリットルのペットボトルが暫時の灰皿であることを鑑みると、吸殻で満杯になった後の処理がどうにも面倒なものであるに違いないとここまでは誰しもが思う所に思考が至ったが、だが彼は、であれば煙草を抑えてしまえば解決だと、まるで、斯様な惨状を迎えたことの顛末が彼の吸い癖に表れたのである。とあれ、一服終えた後は、決まって風呂場の床に落ちた灰を冷水のシャワーで洗い流して、制汗剤を風呂場にまき散らせば、これでやっと祖母の小言を聞かずに済むようになる。
作品名:後架の蜘蛛 作家名:茂野柿