後架の蜘蛛
つまり──確かに野球はまあまあうまく、いつか己はプロ野球選手になるのだとの年相応の夢を抱いていたのだったが、所詮は中学レベルではというだけの大海も知らぬ蛙の態であったので、大してうまくもないくせに監督の意向に逆らい、以降雪崩式に転落の人生を歩むこととなり、また、幼馴染であり友人でもあった者がかなり本格的な悪の世界に進んだのに何か足を引っ張られ、かてて加えて勉学の方も通知表の大半が一を占める有様であったとすれば、それが大人になり斯様な惨状を迎えるのは、なんら不思議な話ではなかったのだ。——何か、友達が一人もおらぬことが、異質な存在、異変、或いは天才であることの証左なのではないかとの夢想をする真っ当な中学二年生時分を過ぎ、勉学はやればできるとの尊大な面持ちのまま底辺高校へ通い、本当の俺であれば──或いは本気の俺であれば、人生なんぞ楽勝に乗り切る事が出来るとの、どこまでも救いようのない底辺な考えで以て今まで過ごした学生時代こそ、今の佑月の状態に着々と帰結するまでの過程に過ぎなかったのだと気づくに、この段──古本屋のアルバイトを馘首された段にて、本当にようやく気付いたのだった。これを魯鈍と言わずしてなんて云おう。
佑月はその段にてようやく自分の過去を見返せるに至り、すると、己は一体何に努力を費やしてきたのか、もしや自分は取り返しのつかぬことに二十年以上を費消せしめてきてしまったのではないのかと悟ったのだった。——実は自分はなんら特別な存在ではなく、況してやプラスの方面に一般や普通から逸脱していた存在なのではなく、ひたすらに──どこまでもひたすらに、マイナス方面に舵を切っていただけに過ぎぬだけの、単純に人生の落伍者、瓦全たる落ちこぼれであることを悟るに至ったのである。
それが、どこまでも己が優れた存在であると強く信じてきていた佑月に、況してや己があれほど嘲笑してきたフリーターという土俵にすら立てぬ現実が襲い掛かり、よもや言葉にすらならぬ悲鳴が横溢する顛末——今に至るのである。
(——あぁ……あぁ……あぁ‼)
そして、何が端緒であったか、佑月は一念発起な心持で手に取った哲学書にこそ向日性を見出すも、彼の焦燥感と虚無感が徒に増幅されるものにしかならぬ、己の糸に絡まる無様な蜘蛛の態に陥らせた。
やはり哲学者らは、差はあれど、恵まれている者ばかりだとの勘違い(史実、そうでない者もおるが)は、彼の詰めが甘く、一度決め付けると依怙地にもなるほど融通の利かぬ、その思考回路を以てしてここまでたどり着いたと云わんばかりの、脳みその使い方の下手さを己で証明したも同然であった、またも己の糸に雁字搦めになる蜘蛛の様を露呈したに過ぎなかった。——要は、生粋の馬鹿であったのだ。
そんな馬鹿な佑月であるから、大海を知らぬままの蛙として生きていた方が、無駄に思考を繰り広げることもなく、きっと無知のまま幸せに生きていられていただろうに、馬鹿であるにしも——いや、馬鹿であるからこそ、哲学なぞと云う神域に足を踏み入れてしまったのである。彼は無駄に知識を得、無駄に懊悩し、己の状態が如何に低俗であるか、如何に社会の底辺付近にいたか、再認識するに至ってしまったのである。
しかし、どちらにせよ彼の辿ってきた人生というのは、「どうしようもない堕落の歴史」と、一行も使わずに書き表せられる程度のものであったのだから、折角であればそれを良い期日として、その日より虚心坦懐な気持ちで以て哲学に挑み続けていさえすれば、或いは違う命運も待ち受けていただろうに、何につけ三日と続かぬ彼がしかし一か月以上も濫読、耽読したのは珍しきことではあったが、年数と数えられる程耐えうる忍耐力を期待するのは怠惰な佑月をして土台無理な話であった。——しかも、哲学を味方にしたからと云って、今の状況が好転する頼もしきものかと云えば、当然そんなことはない。加えて、そんな佑月程度の、まともに勉学すら出来ぬ者が得た中途半端な知識なぞ、一体全体なんの役に立つであろうか。
結句、彼はただ二ヶ月を無駄に過ごしたに過ぎず——いや、しかし、佑月に日頃何かを成さねばならぬことがあるわけでもなしに、「無駄」という表現はちと不適切なものであろう。その頃の佑月にとっての最短の締め切りは「死」のみであったから、無駄も何もなく、その人生自体が死ぬまでの無駄に過ぎぬ、ひどく退屈で鬱屈とした、空虚な待ち時間でしかなかった。——よくせきの退屈凌ぎには成り得た程度であった。
無論、人生に絶望した者が悟る傾向のある、「人生は死ぬまでの暇つぶし」なるニヒリズムが擡頭しないわけでもなかったが、しかしそんな、まるで何の役にも立たぬ廉価な戯言なぞ彼より頭の良い人間たちはとうに分かり切っており、一にも二にも己がエリートではないとの現実を受けきれぬ方が余程深刻で、己の一生は、もう何をしても、その普通や一般にすらそっぽ向かれる負け犬なのだと、すっかり人生を諦める仕儀に陥ったのだ──つまるところ、たかだか一、二ヶ月の読書で、そう簡単に人生は変わりやしないことを、彼はそのどこまでも傲慢、魯鈍な頭では気づけない──気づくはずもなかったのだ。
第一、自分がどこまでも劣等であると思うと、どんな仕事であれ自分には出来ぬものだと思うようになり、それが仮令簡単そうな——実際数年前やったことのある箱詰めのような簡単な仕事ですら、類は友を呼ぶ方式で悪い人としか付き合ったことのない(こともないが、結句周りに残るのは左様な者ばかりなのであったからそう思うのも無理はない)佑月であれば、どの職場にもいるであろう、自己劣等感より芽生えた防衛本能とでも云おうか、自尊心を保つために弱者を虐げる構図が思い浮かび、而してその対象は何があっても劣等たる自分であろうとの被害妄想までもがセットで浮かんでくるのだったから、仕事はおろか、外に出る事すらままならぬ状態にまで陥っていたのだった。
——と云うように、実こそ、この段階ではまだ完全に自分のことを諦めていなかった。そうであろう、もしそれこそ完膚なきまでに己の未来を諦めていたのであれば、どうして左様にして己の劣等に嘆き悲しむことがあるであろうか。やはり所詮、口先だけに過ぎぬ「諦観」であり、「あわよくば」精神に肩まで浸かる、どこまでも初志貫徹することの出来ぬ、中途半端な佑月のままであったのである。
結局、「死ぬまでの待ち時間」なぞとは嘯いてみても、己を諦められぬ中途半端なニヒリズムなぞ、苦しんで然るべきであったのだ。
佑月はまたぞろ長嘆交じりに煙を吐くと、
「どうしよう…どうしよう俺の人生…」
ぽろり、ぽろり、何度零れたか分からぬ不安が、梅毒で脳をやられた者の涎みたく垂れてゆくのだった。ニコチンにより覚えた快楽は、刹那の間に不安に掻き消され、そのどうにもならぬ不安が呼吸のようにして——それをどこか体外へ逃がすかのようにして、佑月はしかし無意識にも独り言ちるのであった。