Squib
姫浦は、枕元に置いた卓上時計に目を向けた。上戸が須藤を解放する場所は、あの待ち合わせ場所から二時間ほど走った先にある貨物列車の発着場だ。その近くの駅で始発が動き出すまで待機し、後は自由にさせる。須藤を上戸に引き渡したのは、ちょうど二時半。今は四時十五分。仕事としては、上戸に引き渡した時点で自分の役割は終わっているが、気にかかる。姫浦は深呼吸を数回繰り返すと、何万回と引き金を引いてきた右手の人差し指を見下ろし、フローリングの上に腰を下ろした。自分の性格上、夜明けまでカーテンの外が白くなっていくのを眺めることになる。
自分の心臓以外に何の動きもない空間で座ったまま十分程度が過ぎたとき、スマートフォンが床の上で震えた。通話ボタンをタップするなり、稲場が言った。
「場所を送るから、上戸を拾いに行け。車を盗られた」
「承知しました」
声が喉を通って外へ出るころには、上着を引っかけてバックパックを背負い、スニーカーに両足を突っ込んでいた。公園の駐車場まで全速力で走り、姫浦は稲場から送られてきた住所をスマートフォンに登録すると、アルテッツァに乗り込んでエンジンをかけた。幸い、IS250の車内には何も置いていなかった。不都合なことがあるとすれば、GPS発信機がついていないということ。移動のためだけの車だから、ほとんどの装備は市場に流通しているそのままだ。高速道路に合流して時速百二十キロで飛ばしながら、姫浦は助手席に置いたバックパックの中を探った。S&WM632を取り出し、六発の32H&Rマグナムが装填されていることを目で確認してから、スピードローダー二個と一緒にバックパックのサイドポケットへ突っ込んだ。緊急用のリボルバーだが、いつでも使えるようにしておかないといけない。車を盗られたというのは、あくまで『上戸の報告』だ。そこに別の誰かが銃を持って待ち構えているということは、充分にあり得る。
電話を受けてから、十五分が過ぎた。姫浦はシフトレバーを六速に入れて、アクセルをさらに踏み込んだ。こうやって、自分の行動が正解だったことを証明される。仕事が終わってもすぐに着替えて寛がないのは、自分が監視役でなく現場の人間だからだ。その勘のようなものは、結局こうやって役に立っている。
稲場が指定した場所は、須藤を解放する予定だった貨物駅の近くを指していた。既に使われていない無人の駅舎で、がらんどうになった建物だけが残されている。姫浦は一時間ほど高速道路を走った後、下道をさらに数十分走って、鉄道の架線が見え始めたときにヘッドライトを消した。駅舎の反対側からアルテッツァを近づけて、ブレーキランプを光らせないようにエンジンブレーキとサイドブレーキで車体を止め、バックパックを背負って静かに降りるのと同時に、ジャケットの左ポケットにスピードローダーを二個放り込んだ。
M632を右手に持って駅舎の裏へ回り、錆びついた『高圧注意』の看板を通り過ぎて木製の扉に手をかけたとき、中で火が灯った。姫浦は深呼吸をしてからM632を顔の位置まで持ち上げ、扉を大きく開いた。上戸が煙草を口から落として両手を挙げ、真っ赤に腫れ上がった左手を振った。
「悪い、車を盗られちまった」
姫浦はM632の銃口を下げると、上戸の左腕に目を向けた。
「それは、殴られたんですか?」
「轢かれたんだよ。レクサスは重いな」
上戸はそう言うと、ため息をついた。姫浦はM632をジャケットの右ポケットに仕舞うと、上戸をアルテッツァの助手席に乗せて、バックパックを後部座席に放り込んでから運転席に座った。上戸は背もたれに体を深く預けて、言った。
「早いな、助かったよ。優雅に一杯やってるのかと思ってた」
「あと五分連絡が遅かったら、飲んでましたよ」
姫浦はアルテッツァを転回させると、山道の方角へ走らせた。明らかに骨が折れているから、『田邊医院』へ連れて行かなければならない。問題は、ここから休憩なしで走っても四時間はかかるということ。上戸はアルテッツァのハードディスクを無事な方の手で探っていたが、プレイリストの中にラットの『殺しの情景』を見つけるなり口笛を吹いた。
「お前、渋いの聴いてんな」
「前の持ち主の趣味です」
姫浦はそう言うと、上戸が再生ボタンを押してボリュームを上げるのに任せた。ギターソロが始まったあたりで、その左手をちらりと見た姫浦は、言った。
「痛いですか?」
「なんのアンケートだよ。痛いに決まってるだろ。中指から小指は確実にアウトだ」
上戸は音楽が鎮痛剤になっているように、スピーカ―へ顔を近づけた。姫浦はボリュームを下げながら言った。
「相手の顔は、分かりますか?」
現実逃避を拒否された上戸は、苦笑いをしながら肩をすくめた。
「分かるも何も、須藤に盗られた」
姫浦は前を向いたまま、顔をしかめた。解散場所で、逃がした相手に車を盗られる? そんなことは、普通では起こり得ない。金払いの悪い依頼人が最後の最後にこちらの息の根を止めようとするのなら分かるが、逃がした人間からは、表現の個人差こそあれど感謝以外はされたことがない。
「普通は、感謝されるものだと思いますが」
姫浦が言うと、上戸は怪我が自分の責任だと言われたように、憮然とした表情のまま鼻を鳴らした。
「確かに、普通は感謝する。おれだって、自分を助けた奴の手を轢く前に、内輪差は確認するかもしれない。万が一轢いたら、手を差し伸べて大丈夫ですかって聞くぐらいはするかもな」
姫浦が反応に困っていると、上戸は空気を切り替えるように無事な方の手でスマートフォンを取り出し、画面を差し出した。
「安心しろ、依頼自体は完了してる。先に写真を撮ったからな」
最後に車は盗られたが、依頼の条件は満たしている。姫浦は写真を一瞥すると、苦笑いを浮かべた。仕事が終わってもすぐに落ち着かないのが自分の『才能』なら、先に写真を撮っておくのが上戸のそれであり、そのだらしなく伸びきった体を今まで生き延びさせてきたのだろう。姫浦は言った。
「そういうものですか」
「とりあえず、稲場には送っといた。山道だろうが市街地だろうが、あいつが五体満足だってことには変わりないだろ。少なくともおれたちは生きてる姿を見てるし、写真が証明してる」
車内が無言の空間に戻って二時間半が経ったとき、オーディオをいじっていた上戸のスマートフォンが震えた。姫浦がボリュームを下げると、上戸は通話ボタンを押してスピーカーのアイコンをタップした。
「合流しました」
上戸が言うと、稲場は雑音交じりの声で言った。
「完了だ。レクサスの分は依頼人に請求するから、直接会いに行って話してこい。揉めたら殺していい」
上戸は難解なクイズを目の前に差し出されたように、眉間を押さえた。
「すみません、左手が折れてるんです」
「お前には、一本しか手が生えてないのか? 怪我があるなら好都合だろ。痛い振りでもして交渉材料にしたらいい。盗まれた下りまではおれが話しとくから、後はお前が始末しろよ」
稲場は早口で言い切ると、一方的に通話を終えた。姫浦がふっと息を漏らして笑うと、上戸は顔をしかめた。
「なに笑ってんだよ」
「私が行きますよ」



