Squib
捜査で突破口を求めていた熊田と、足は洗ったが内情についてはそれなりに把握している自分。それは、命を救った人間と、救われた人間という風に置き換えることもできた。だから、熊田との関係が麻薬取締官とカタギの市民に戻る直前、『まだ、顔は利きます』と言った。熊田は鼻で笑ったが、こちらは本気だった。そうやって、自分はかつての恩人に情報を横流しする『協力者』になった。協業体制が生まれてから熊田が摘発した組織の数は、勢い良く伸びた。そして三年前、新興のブローカーが街に現れた。ゆで卵が心配していた『何か』が実際に起きて、末端組織は駆逐された。ある意味、警察や麻薬取締官よりも仕事が早かった。昔の知り合いを頼って聞き出した話では、その組織は少数精鋭で、ブローカー業が中心だったが、製造者を探していた。知り合いの知り合いを頼って潜入したのが、二年前。しばらく下っ端を真面目に勤め上げ、製造係に任命されたのは一年前。問題があるとすれば、足に鎖をつけられて行動の自由を奪われることと、所持品や連絡手段を全て没収されることだった。要でありながら、製造者というのは意外に不自由な存在だった。それはさておき、法執行側と犯罪者側の両輪がうまく機能して、このままいけば摘発は目の前だったが、そううまくはいかなかった。
半年前、熊田は被疑者への過剰な暴行で告発されて、あっさりと職を追われた。聖人ではなかったし、その右手が棍棒代わりになる瞬間は何度も見てきた。それでも、容疑が出てから処分が下るまでの素早さは、内通者がいて初めから仕組まれていたと考える方が、自然だった。
幸い、二年前に組織に入り込んだぽっと出の製造者である自分との関わりは、見出されなかった。だとしたら、やめる理由はない。問題があるとすれば、外との接点が断たれたことで、かつて熊田がドアを蹴り開けたような助けは、もう来ないということだけだ。
それでも、計画の片輪として動き続けた。新作は完成間近で、試食会の日程も数日後に控えていた。ドアを蹴り開ける人間が不在なだけで、構成員が数年ぶりに全員揃う機会は、目の前にあったのだ。その機会に片輪にできることをやり遂げるつもりだったが、結局、どうにかして『手段』を見つけ出した熊田に命を救われた。
「おれを逃がすのが、依頼なんですか?」
須藤は道路の形を頭に留めながら、前を向いたまま言った。
「安全が確保できたら、あなたの写真を依頼人に送ります。それで完了です」
姫浦はシフトレバーに軽く触れると、Bレンジに入れた。回転数が上がるのと同時にエンジンブレーキが効き、コイン精米所の近くに停められたレクサスIS250に気づいた須藤は言った。
「車がいます」
「乗り換えです」
姫浦はIS250の手前でプリウスを完全に停車させると、須藤の方を向いた。降りるように無言で促していることに気づいた須藤は、素直に助手席のドアを開けながら言った。
「助かりました」
上戸は、白いワイシャツに黒のスラックスというサラリーマン然とした服装を揺すりながら、IS250の運転席から降りた。ベルトの位置をひとしきり調整すると、スマートフォンで須藤の写真を撮ってから言った。
「では、乗ってくれますかね」
IS250に二人が乗り込んだことを確認した姫浦は、プリウスをUターンさせた。ヘッドライトをハイビームにして時速八十キロを保ちながら山道を縫って走り、おおよそ三十分が経過したところで路肩に寄せた。少なくともこのプリウスには、追手はいない。後は上戸の腕前次第だ。山道を下りきると、姫浦は立体駐車場の中へプリウスを入れて、防犯カメラの死角になる位置に停められたシルバーのアルテッツァに乗り換えた。後は回収係がプリウスを吉松のところへ持って行き、自分はこのまま『家』に帰れる。
午前四時の市街地は人の気配がなく、信号だけが昼間の予行演習をするように切り替わり続けている。姫浦は数ヶ月前に移り住んだアパートまで、アルテッツァを走らせた。私物というのは、基本的に存在しない。今の自分が身に着けているもの以外だと、アパートに置いてある最低限の生活用品と、ナイフの練習に使う等身大の木型、そして懸垂に使うために梁へ渡した鉄の棒ぐらいだ。基本的に、姿を消すための全てを毎回持ち出している。顔のあちこちに残った傷痕を隠すための化粧道具に、剃刀の刃を瞬間接着剤で貼り付けたクレジットカード、首に巻き付けるためのタイラップと鋏、全部がバックパックの中に入っている。もし姿を消さずに戦う必要があるなら、貸しロッカーの七七四番を使う。そこには、いつも装備を手配する樋口から個人的に仕入れた銃が置いてある。モスバーグM590ナイトスティックにホーナディ製のダブルオーバックが五十発と、デッドエアー製のサプレッサーが装着されたコルトレイルガン、フェデラル製のホローポイントがフル装填された十連弾倉が五本。そして、四日間キャンプを張れるだけのテントや寝袋。加えて浄水キットや軍用の止血剤と、かなりの大所帯だ。そのまま朽ちて錆びついてくれれば、波風は立たなかったということになる。そんなことを求めるつもりは毛頭ないが、あの装備を急いで体に巻き付けている未来は、あまり想像したくないのも事実だ。
姫浦はアパートの近くにある公園の駐車場にアルテッツァを停めると、三〇四号室まで階段を上がった。玄関ドアを入ると、その先は埃ひとつない空き部屋のような空間が広がっている。寝具はフローリングの上に直接置いてあり、その隣に刺し傷だらけの木型が護衛のように立っているだけだ。電気を点けると、姫浦はバックパックをキッチンの前に置いた。見慣れた光景だが、いつまで続くのかは分からない。稲場は最近、現場から引いて監視役に回れと言うようになってきた。経験上、今まで関わった仲間でそういった役割を任されるタイプというのは、ロクな人間がいなかった。むしろ、現場仕事に難があるから監視役に回されるのだと、信じて疑わなかった。だからこそ、その矛先が自分に向いたのは想定外だった。ここ最近、簡単な仕事が続いたというのも、あるのかもしれない。姫浦は連絡用のスマートフォンをジャケットのポケットから取り出すと、居間の床に置いた。
十九歳でこの仕事を始めて、独り立ちしたのはそれから一年が経った二十歳のとき。そこから十三年が過ぎた今も、生き延びている。体は無傷な場所の方が少ないぐらいだが、次第に怪我の回数は少なくなっていった。去年の暮れに足首を捻挫したのが最後で、骨が折れるような大怪我を負ったのは、何年も前だ。
殺しは一方的であればあるほどいい。それは自分に仕事を教えた神崎の考え方で、そのためなら最も卑怯な手段でも選ぶべきだというのが、持論だった。そのルールが自分を生かしてきたのは、確かだ。しかし、そのさらに先にあるのが、スマートフォンで人の位置情報を確認しながら作戦全体を見守る立場なのだろうか。そんなデスクワークのような仕事に落ち着いてしまえば最後、体はなまりきって、自分の身すら守れなくなるのは目に見えている。



