Squib
姫浦はそう言うと、製造ブースの外へ出た。発電機の音に紛れて階段まで移動したとき、地上を巡回している四人の内、二人分の足音が頭上で響いた。姫浦は、須藤を階段の真下にある真っ暗なスペースへ押し込み、自分の体も同じように収めると、足音が去っていく方向に耳を集中させた。一階に出たら、敷地の西側にある林を抜けて、その先に停めてあるプリウスで移動する。上戸は山道を下りきった先にあるコイン精米所の裏で待機していて、そこで須藤をIS250に移し、逃がした先で無事な須藤の写真を熊田へ送れば、依頼は完了となる。
足音が東の方向へ去っていき、姫浦は階段の下からゆっくりと出て、須藤が後ろについていることを確認しながら階段を上がった。踊り場まで来たとき、話し声と笑い声が同時に上がり、四人分の声が含まれていることを聞き分けた姫浦は、須藤に目で合図を送った。西側の出口まで素早く移動すると、姫浦は林の中へ足を踏み入れた。須藤は何度かつまずきながらペースを合わせると、林の反対側へ抜けた先に停まっている黒のプリウスを見て、姫浦の背中に言った。
「新作の途中でした。あともう少しで完成だったんですが」
姫浦は一度振り返ったが、特に関心を向けることもなく助手席のドアを開けた。須藤はそれ以上話すことなく助手席に乗り込み、姫浦は運転席に座ると、静かにプリウスを発進させた。ヘッドライトを消したまま林道を縫うように走る中、須藤はドアグリップを握りしめて呟くように言った。
「熊田さんは、なんて言ってましたか?」
「私は、直接は話していません」
前を向いたまま姫浦が言うと、話し相手としてこれ以上退屈な相手もいないという風に、須藤は鼻を鳴らした。
「これから、どうするんですか?」
須藤が言うと、姫浦は返事の代わりに林道の出口でヘッドライトを点けた。舗装された山道に出るなりアクセルを踏み込み、時速八十キロに達したところで言った。
「車を替えます」
タイヤを鳴らしながら山道を縫っていくプリウスの助手席で、須藤は後ろを振り返った。ひとりも殺すことなく、ふっと現れて人を連れて出て行く。そういう仕事をする人間がいるのは、熊田が現役だった時代に聞いたことがある。まさか自分に対して使われるとは、思っていなかった。須藤は前を向くと、『逃がされている』今の状況に歩調を合わせるように、眼前の景色に集中した。熊田と最初に会ったのは、十年前。麻薬取締官と密売人という、真逆の立場だった。
『人に売るだけ売って、自分は素面なのかよ。大した身分だな』
返事をしたかったが、うつ伏せにされた上から体重をかけられて身動きが取れないどころか、呼吸すら難しい状態だった。取引場所に現れた熊田はどう見てもカタギの風体ではなかったが、おとり捜査にありがちな白々しい派手さもなかった。驚いたのは、正体を明かすのと同時にその目が光を取り戻したことだった。最初は猫背で図体だけが大きく、どちらかというと臆病にすら見えた。一見さんにありがちな、後ろめたさで全ての方向から視線を突き刺されているような態度。それが突然、百八十度反転した。そして、元に戻ることはなかった。
『お前らみたいな人間は、少なけりゃ少ないほどいい』
熊田はそう言って笑っていたが、それには同感だった。今年で三十五歳になるが、その人生のほとんどを『人間のくず』として過ごしてきたし、その自覚は早い内からあった。そこまでの悪気はないが、何かを押し通すだけの気概もない。そもそも、生きようとする人間の本能のようなものが、自分には備わっていなかった。そして、それは今も変わっていない。なんとなく高校を出るところまではレールの上を歩き続けて、レールが消えたらそこで立ち止まった。ただ、それだけの人生だった。
ただ、簡単に稼げる仕事として始めた売人稼業だけは、すぐ板についた。それが二十歳のときで、熊田に会うまで五年間、無風で過ごした。知り合いが次々増えて、その間に麻薬の製造方法を学び、三年が過ぎるころには自作の麻薬も売り捌いていた。つまり、意外に適性があったということになる。怖い目に遭うことも時にはあったが、大抵は縄張りの押し込み合いが原因で、その度にのらりくらりとかわしてきた。そして、それは熊田が取引場所に現れた夜に突然終わった。少なくとも、その半分は。
熊田は、自分を捕まえなかった。
『おれを引っ張らないのか』
そう聞くと、熊田は鼻で笑い飛ばした。
『お前みたいな小物は、数に入らない。もし入ったら、真っ先に叩き潰してやる』
あの当時の自分は、捕まえる価値もないほどの存在だった。顔を覚えられた以上、叩き潰すリストの一番上にいるというのも、本当なのだろう。何より熊田は、冗談を言うタイプには見えなかった。その一件以来、順調にキャリアを積んでいた売人稼業への意欲は完全に削がれて、それから数か月後に売人から足を洗い、居酒屋でバイトを始めた。縄張りはぽっかりと空き、別のグループが後釜をこっそりと差し込んだ。それが厄介な男で、石橋を叩いて渡るどころか、割れるまで叩いて結局誰も渡れなくなるような、度を越して慎重な性格だった。ゆで卵にマジックペンで部品を描いたような顔で、もう名前は覚えていない。とにかく、その『ゆで卵』が叩き壊すべき石橋に選んだのが、縄張りをあっさり放棄した自分だった。何か裏があるんじゃないかと考えたらしく、バイト帰りに拉致されて、そのまま監禁された。雑居ビルの空きフロアを拷問部屋代わりに使っているゆで卵は頭のネジが飛んでいて、まず聞かれたのは利き手だった。正直に答えたら右手は無事では済まないだろうと思って左と答えたら、右手の爪を全て剥がされた。ゆで卵は異常者だが、利き手を庇うだけの良心は持ち合わせていた。
『怖いんだよお、なんで急にカタギになったんだよお前。なんかあるんじゃねえの?』
パイプ椅子に座りながら、自分の貧乏ゆすりで体をがくがく揺らせ続けていたゆで卵は、美味しい縄張りにありついた喜びよりも、何か裏があるのではないかという恐怖に負けそうになっていた。これから数時間に渡って石橋の代わりをする羽目になると思うと、一瞬でバラバラに砕いてほしいとすら思ったが、ゆで卵の『妄想』も理には適っていた。
『あんな美味しい場所なのにさ、なんで引いたんだよ?』
聞かれるのは、ちょうど十回目だった。嘘をついたことで左手の指先は無事だったが、次はハンマーで膝を狙われる予感がしていたし、もう利き足のアンケートはなかった。どう答えるか悩んだとき、薄いドアが蹴り開けられた。開き切った衝撃で窓ガラスが粉々に割れたとき、それが熊田だということを直感的に理解した。ゆで卵は、固さを試されるように四方八方へ投げ飛ばされて、数分でケチャップを混ぜ込んだスクランブルエッグのようになった。熊田はしばらく息を切らせていたが、椅子に縛られている姿を見るなり、声を上げて笑った。
『なんでこんな奴に捕まってんだ』
反論するように『自分は足を洗いました』と応じたとき、熊田は『知ってるよ。よくやった』と誇らしげに言った。そして、カタギに戻ったことを知っているから駆け付けたのだと、付け加えた。



