Squib
左腕に残る、微かな痺れ。中指の関節から肘までワイヤーが通されたように、じんわりとした違和感が広がっている。これは、いつの怪我なのだろう。姫浦はグレーのジップアップジャケットの袖を捲ると、身を低くして気配を殺していたテーブルの下から、数時間ぶりに這い出した。
かつて十階建てのリゾートホテルだった、コンクリート造りの何か。中庭のような吹き抜けにはローレルの廃車が一台雨ざらしになっていて、建物は廃車を取り囲むようにコの字型に広がっている。昼に見ればその景色は壮観なのかもしれないが、深夜二時という生き物のほとんどが眠りにつく時間では、影絵のように聳え立つコンクリートの塊にしか見えない。姫浦が身を隠す場所に選んだのは一階の遊戯室で、埃とカビにうっすらと覆われた古いゲーム機やエアホッケーの台が置いてあった。配達用のバンに紛れ込んで駐車場まで辿り着いたのが、四時間前。見張りがやる気のなさそうな夜勤組に交替したのが、つい三十分前。今なら地上の四人を避ければ、地下に辿り着ける。ジェムテック製のサプレッサーが取り付けられたコルトコンバットコマンダーを右手に持つと、姫浦はブラックジーンズの衣擦れの音に気を配りながら、地下へ繋がる階段へ足をかけた。ナイキのスニーカーがほとんど靴下のように音を吸収し、姫浦はコンバットコマンダーを高く構えたまま踊り場を回り込んだ。地面から壁までありとあらゆる物が余計な音を鳴らす環境では、やはり単独で正解だったと、その確信は深まるばかりだ。階段を下りきると、姫浦は電灯の光が届かない影まで身を低くして移動し、息を潜めた。
この段取りは雇い主の稲場には伝えていないが、実際には二人組の仕事だ。もうひとりは四十代に入ったばかりの上戸で、一週間の偵察を引き受けた代わりに、今はレクサスIS250の運転席で待機している。
『音を出さない仕事は、女の方が得意だろ』
褒めるような口調で言っていたが、上手く丸め込まれたような気がしないでもない。おれは車で寝とくわという、ただのサボり宣言にも聞こえる。上戸のために用意されたライフルはVORTEXのショートスコープとORION―Xサプレッサーが取り付けられたスプリングフィールドM1Aだが、こっちが乗ってきたプリウスのトランクの中で来るはずのない出番を待っている。本当なら外から見張ってくれるだけでもありがたいし、狙撃場所の下見もした。実際、車の後部座席にライフルを固定して、車内から全体を見渡せる場所があった。林に同化した敷地の左半分と屋根が張り出した車回しの真下は死角になるが、出入りする人間を真正面から狙い撃ちにできる位置だった。そこでの監視を提案したが、この季節は夜に同じ場所で一分以上待機すると無数に蚊に噛まれると言って、あっさりと断ってきた。
しかしこれだけ手薄なら、車で寝てくれていて良かったのかもしれない。姫浦はそう考えながら、耳を澄ませた。製造ブースの中を人影が往復しているが、今のところはひとり分だ。唸り続ける発電機のエンジン音について回るのは、鎖を引きずるような金属音。カメラらしきものは見当たらず、原始的な設備しか用意されていない。おそらく製造ブースにいる人間は、移動できる程度の長さで鎖に繋がれているのだろう。監視対象が物理的に動けないのなら、カメラにコストをかける理由もない。姫浦は、コンバットコマンダーの安全装置に乗せた親指に力を込めた。あと十五秒待って動きがなければ、製造ブースの入口まで移動する。
この組織の構成員は五人。武装した護衛も含めればその倍はいるが、普段は地下に最低限の見張りしかいない。上戸が偵察した通りなら、今日の地下当番はひときわやる気がなく、外に置いたキャンプ用のパイプ椅子でくつろぎながら煙草を吸っている。地下が息苦しいのは理解できるし、外へ通じる階段の一番上に椅子を置いているから、中で何か起きればすぐに駆け付けられる。一応、仕事は半分こなしていることになり、合理的だ。しかし、自分が今やっているように正面から潜入された場合、階段上から見張っている意味は完全に失われる。次に中へ目が届くのは、当番が交替する朝の七時だ。
姫浦は静かに身体を起こすと、製造ブースの中へ入り込み、鎖が足に巻き付いた男の背中へコンバットコマンダーの銃口を向けた。麻薬の製造担当はひとりしかおらず、上戸によると、一週間の偵察中に何度か煙草を吸いに出てくるのを見た限りでは、到底素面には見えず、少しの距離でもよろけながら歩いていたらしい。パイプ椅子の見張りとは仲が良く、煙草を分けてもらう関係のようだった。
男はグレーの作業服姿で、後ろから見れば上戸の言う通りかなり衰弱しているように見えた。髪は伸び放題で、袖から覗く手は傷だらけだ。履き潰したスニーカーはぺらぺらの煎餅のように消耗している。その顔がくるりと振り返って目をまっすぐ見返したとき、姫浦はコンバットコマンダーの銃口を少しだけ下げた。男は枯れる覚悟ができた雑草のように猫背だったが、髪に半分隠れた顔から覗く目だけは鋭く光っていた。
「須藤さんで、間違いありませんか?」
「はい、自分です」
そう言うと、須藤は鎖の巻き付き方が気に入らないように、鋼鉄製の足輪が囲う右足を一度だけ振った。姫浦は須藤の胸に銃口を向けたまま、言った。
「熊田さんからの依頼で来ました」
その言葉を聞いた須藤の目から、ボリュームを小さく絞るように光が消えていき、姫浦が引き金に指をかけるか考え始めたとき、須藤は足首を捕らえて離さない鎖の塊に視線を落とした。
「六十秒ください」
返事を待たずにその場に屈みこんだ須藤から目を離さないようにしながら、姫浦は身を低くして周囲を警戒した。発電機が回っている以上、足音で気づくのは難しい。足輪の鍵穴にピンのような針金を差し込んでいる須藤は、上戸の見立てとはむしろ逆で、頭が冴え渡っているようにすら見える。姫浦は製造ブースに置いてある備品に目を走らせた。整頓されていて、巨大な箱に入ったままの資材や薬品には、全てラベルが貼ってある。化学反応については素人でも、この製造ブースを中心に、建物が解体されるレベルの爆発を引き起こせるというのは分かる。
熊田の依頼は、殺しではない。その逆で、誰も殺さずに須藤をここから脱出させることだ。問題は、熊田が元麻薬取締官だということ。身辺調査で判明した時点で稲場は断ろうとしていたが、依頼が来る時点で組織の尻尾を掴まれているのは間違いないというのもあってすぐに観念し、電話を切るなり、受話器に生気を全て吸われたように椅子へもたれかかっていた。本来なら顔を合わせるだけでも危険な相手だから、その指示には続きがある。
『少しでも怪しいと思ったら、殺しても構わないからな』
大した額にもならないしなと、稲場は付け加えていた。問題は、本来の指示と追加の指示で内容が完全に逆だということ。姫浦が頭の中で時間を測り始めて四十五秒が過ぎたとき、鎖がだらしなく地面に落ちた。机の下に鎖の束を丸めて押し込んだ須藤は、腰を庇うように手で押さえながら言った。
「行けます」
「できるだけ低い姿勢で、静かに歩いてください。私の頭より上に身体を出さないよう、お願いします」



