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表裏の可能性

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この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、説定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和6年7月時点のものです。お話の中には、事実に基づいた事件について書いていることもあれば、政治的意見も述べていますが、どちらも、「皆さんの代弁」というつもりで書いております。今回の事件も、「どこかで聞いたような」ということを思われるかも知れませんが、あくまでもフィクションだということをご了承ください。実際にまだ標準で装備されていないものも、されることを予測して書いている場合もあります。そこだけは、「未来のお話」ということになります。

                 プロローグ

「嘘をつく」
 ということがどういうことなのか?
 それは、基本的にはいいことではない。嘘をつくことで、誰かに迷惑がかかることがあり、それは、
「無意識のうちの、迷惑」
 ということであれば、これほど理不尽なことはないといってもいいのではないだろうか?
 嘘にもいろいろ種類があり、
「嘘も方便」
 という言葉があるように、
「誰かのために嘘をつく」
 ということで、
「許される」
 という考え方もあるのではないだろうか?
 だが、たいていは、
「嘘をつくということは悪いことだ」
 と言われている。
 それなのに、
「一年のうちで、この日だけは、嘘をついていい」
 と言われる、
「エープリルフール」
 などというものがあるではないか。
 ちなみに、この、
「エープリルフール」
 というのは、日本だけでなく、全世界で行われる、いわゆる年中行事の一つであるかのようになっている。
 さらに、この
「エープリルフール」
 という習慣がいつから起こったのかというのは、分かっているわけではなく、言われていることとしていくつかあるが、そのすべてに信憑性はないということである。
 それだけに、
「都市伝説の一種」
 ということであった。
 実際に厄介なことに、それらをマスゴミが、
「フェイクニュース」
 という形で流すこともざらであり、海外の新聞がそれを流すと、バカな日本の新聞社が、その話を、
「本当のこと」
 ということで報道してしまったという過去がある。
 相当の混乱を巻き起こしたのではないだろうか?
 そんな時代において、
「嘘というものがいかにまずいことか?」
 ということを思い知らされるというものだ。
 それを思えば、
「一年に一度だけ、嘘をついてもいい日」
 という、
「エープリルフール」
 というイベントは、
「本来はしてはいけない」
 ということへの
「戒めではないか?」
 と考えるのは、考えすぎというものであろうか?
 普通に考えれば、
「嘘をまじめに信じ込んでしまった人が、不幸にならないとも限らない」
 といえるのではないだろうか?
 嘘というものを信じたことで、ひょっとすると、戦争が起こることだってないとはいえない。
 実際に、
「些細な嘘が原因で起こった戦争」
 というのも、あったかも知れない。
 犯罪というのもそうだ。
「誰かが嘘をついたことで、それを正しいと思い込み、被害妄想であったり、猜疑心の強さから、自分が殺されると思い込み、殺される前に殺すというような妄想に駆られてしまったことで、殺人犯になってしまう」
 ということもあるだろう。
 そもそも、
「嘘というのは、許されるものではない」
 といえる。
 そう思えば、
「嘘」
 というものと似たものとして、
「デマ」
 というものも、似たようなものではないだろうか?
 ただ、
「デマ」
 というのは、災害時などにいわれることとして、
「情報が錯そうすることで、あることないことが噂される」
 というところから出てくるもので、一種の、
「自然発生的に生まれるもの」
 ということではないだろうか。
 今から、ちょうど100年前に発生した、
「関東大震災」
 が発生した時、どこから出たのか分からないが、
「震災を起こしたのは、朝鮮人の仕業だ」
 という、
「根も葉もないうわさ」
 を信じて、
「朝鮮人虐殺」
 という事件が発生した。
 平時の精神状態であれば、およそ、
「そんなことはありえない」
 と考えられるようなことでも、信じてしまうというのは、
「集団意識のなせる業」
 といってもいいかも知れない。
 平時であれば、正しい情報が、メディアによって発表されるが、震災時ということになると、情報は錯そうし、
「何が正しいのか?」
 ということも分からなくなる。
 そうなると、どうしても、
「多数派の情報を信じてしまう」
 ということになり、どこからか分からない情報でも、それが、
「ウワサ」
 ということになってしまうと、
「それが嘘ではない」
 と考えてしまい、本来であれば、
「嘘ではない」
 ということが、
「そのまま本当のことだ」
 ということで、
「行動しなければならない」
 とはなるわけでもないのに、行動に移るのは、それだけ、
「群集心理」
 というものが恐ろしいということになるのだろう。
 災害時に、誰かが行動を起こせば、それにみんなが従うというのも当たり前のことだ。
 混乱している時であればあるほど、
「一つになって、難局を乗り切る」
 と考えるからで、特に情報が錯そうしていれば、
「少しでも、信憑性がありそうだ」
 ということを信じてしまっても、それは仕方がないことなのかも知れない。
 災害時すぐというのは、まったくインフラも、メディアもあてにならない。
 それまで、当たり前のように、電気、ガス、水道が使えていて、移動も電車などを使ってできるというものであったが、家は壊れてしまい、水すら飲むことができない状態で、まわりからは火の手が上がり、とにかく、どこかに逃げなければいけないという状態。
「地獄絵図だ」
 といってもいいだろう。
 そんな状態において、政府は、
「戒厳令を敷く」
 ということになるのだが、この
「戒厳令」
 というのは、今の時代では、ありえないというものである。
 というのは、戒厳令というものが、
「有事や災害時に、自治体などの、機能が停止し、その命令系統が壊滅してしまったりした時、軍が臨時の政府を作り、そこで、戒厳司令官というものを任命し、その命令の下に、治安を維持する」
 というものであった。
 その場合において、
「戒厳司令官の命令は、絶対であり、治安を守るためには、人民の権利を一部制限することも辞さない」
 というものであった。
 今の、
「日本国」
 において、
「戒厳令」
 というものが存在しないというのは、
「違憲になる」
作品名:表裏の可能性 作家名:森本晃次