Dirge
犯罪組織のフロント企業は『オーケートレーディング』という社名で、会長のオカダは六十代。先月、表舞台からの引退を宣言し、代わりに腹心の部下に組織運営の権限を与えた。イノウエ、キド、マチノの三人で、イノウエとキドは空港の近くでレンタカー屋を合法的に経営していて、マチノは五階建ての雑居ビルのオーナー。
シミズはよく、実際に指示を出しているのは今でもオカダだと断言する。部下三人はいわば非合法活動ができるだけのビジネスマンで、力で成り上がってきたタイプではない。何か問題が起きたときに『殺し』の選択肢を計算に入れるのは、オカダしかいない。つまり、三人は弾避けだ。だからシミズは『三羽ガラス』と言って、三人の経営陣をはっきりと馬鹿にしている。ちょうど今届いたメッセージにも、その呼び名が使われていた。
『三羽ガラスに報告した。尾行するわ』
シミズは、今回のことをやっつけ仕事だと思っているだろうし、今は新しい友達とクスリで遊ぶことに必死だ。宝来という若い女で、表向きは服のバイヤーだが実際には密売人。本人もお洒落で、ベレー帽だけでも百個近くコレクションしている。この狭い交遊関係に宝来が追加されてもう三ヶ月になるが、熱しやすく冷めやすいシミズにしては、その友人関係は長続きしているほうだった。何より楽しそうだし、今回の件も本当なら報告すら面倒だったのかもしれない。
でも、警戒しておいて損をすることはない。横野はおそらく、この業界の誰かを殺すために雇われている。あるいは、取り引きをぶち壊す『依頼』をどこかから受けているのかもしれない。どちらかというと人懐っこさを感じさせる表情に、冷気を纏った身のこなし。尾行で背中を追っただけでは、それには気づけないかもしれない。
自分が見たことを全て、シミズに伝えられているだろうか。
ヤシマは次の客を待ちながら、冷房の温度を少し上げた。
イノウエからメッセージが届いたのは、一週間前。ヤシマのところへ現れた男は、横野と名乗り、エックスの場所を聞き出して帰っていったらしい。そこから今までの七日間、目立った動きはない。二日目に下っ端を使って空の取引を仕掛けたが、誰かが釣れるということはなかった。監視はヤスナカに任せたが、エックスの向かいにあるホテルに陣取って取引場所に目を向けるだけの、退屈な仕事だっただろう。オカダは、客がいないカフェのテラス席でエスプレッソをひと口飲んだ。護衛は四人で、狙撃を専門にするひとりが向かいの建物の屋上にいる。地上の三人は、この業界には多い軍隊くずれで、スーツを着ているが中身は精密機械だ。四人からすれば、引退した老人の周りを囲むだけの、退屈な仕事だろう。
オカダ会長は正式に、この稼業から『引退』した。そう報道されているし、新聞にも載っている。体調面を理由にして『オーケートレーディング』の会長職を下り、イノウエ、キド、マチノの三人を矢面に立たせた。
発表と同時に相場がぐらついたのを見て、自分が築き上げた組織の規模に今更ながら驚いた。オーケートレーディングの本業が売春と銃器密売だということは、公然の秘密だ。政府は総力を挙げて、組織を叩き潰すと誓っている。組織の上澄みは十人で、全員が日系。元々は横流しだけが仕事だったが、独自の流通ルートを得たことで、チンピラ商人から格上げすることに成功した。正直、目立ち過ぎたというのはあるが、『オーケートレーディングの闇を暴く』ことは、次の選挙でどの党も公約として掲げている。そこまでの注目が集まるのは光栄なことだが、顔である『オカダ会長』が姿を消してしまったことで、その公約自体が、今ひとつパッとしないものになった。政治家にとっての『倒すべき顔』として機能してあげられないのは、残念な限りだ。しかし、気力面でやや負担が大きくなっているのも事実。あと十年早ければ、こちらから候補とのインタビューを申し込んだだろう。
今回の選挙で優勢な候補は、職に就いたら真っ先にオーケートレーディングの討伐を強行する気配がある。半年前に指示を出した警察官二人の殺しはまだ記憶に新しいし、警察組織も黙ってはいないだろう。
おそらく今回は相当しつこく食らいつかれるし、その過程で死人も出るはずだ。三人に分散したのは、そのためだ。ひとりの身に何かが起きたことが分かっても、充分に逃げる時間がある。いずれによせ、指揮系統の頂点にいるのが自分だということは、変わらない。
自分を囲む護衛のひとりが無線を手に取り、オカダは向かいの建物を見上げた。誰かが来るのだろう。護衛はひとりが道路に目を向けて、もうひとりが自然と自分の盾になった。教科書通りの動きをしている。だから自分は、客席がカウンターに四つしかない狭いカフェのテラス席で、こうやって安心してコーヒーを飲めるわけだが。
命を狙われると、何をするにも金がかかる。
『車が来ます』
無線から雑音交じりの音声が届いて、タニムラは建物と同化する色合いの上着の中に隠れるように、首をすくめた。
「了解」
タクシーが路地を進んでくるのが見える。先は行き止まりだから、目的地はこのカフェ以外にあり得ない。タニムラはベージュに塗られたFALの安全装置に触れると、周囲を見回した。今日の昼は、このカフェでコーヒーを飲む。オカダは昨日の夜にそう連絡を寄越してきた。気まぐれな雇い主が多い中、事前連絡がしっかりしているのはありがたい。つまり、それだけ命の危険を感じているということだ。この屋上へは、朝の六時に上がった。突き出した階段室の外周を回って人影をチェックし、建物の補修業者が置きっぱなしにしているパイプの塊を一度どけて、チェックはひと通り完了している。
そこから六時間が経過した今までが、いわゆる準備。これからが本番だ。
タクシーがのろのろと停まり、後部座席から降りた男は運転手に何かを言うと、紙幣を差し出して、その場に待機させた。そして、スマートフォンを片手にカフェの看板を見上げると、体ごと反転して自撮りをした。その数メートル後ろで、三人の男が自分の背中に視線を注いでいて、しかも全員が銃を持っているということには、全く気づいていないように見える。最近はどんな奥地でも、美味しい料理を出す店や絶景といったものは必ずSNSに捉えられる。観光客がここを目当てでやってくるのは、全く不思議ではない。
『待機しろ』
無線から声が届き、タニムラは小さく応答を返すと、安全装置を解除して体を低く保った。
面白いやつだ。オカダは、カフェに入ってメニューを見上げながら注文する男の背中を見ていたが、声を掛けた。
「お客さん、ちょっと話さないか?」
コーヒーカップを手に取った男が振り返り、伝えられていた通りの顔を見たオカダは、護衛にスペースを空けるよう目で命じた。男が人懐っこい笑顔で近づいてきて向かいの椅子に腰かけたとき、護衛が退路を静かに塞いだことを確認してから、オカダは言った。
「横野さんだな?」
「はい」